マイケル来日パーティー 「うちの6歳の娘も出席した」キャピトル東急スイートルームの真実 (1/5) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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マイケル来日パーティー 「うちの6歳の娘も出席した」キャピトル東急スイートルームの真実

マイケル・ジャクソン死後10年目の証言〈前編〉

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和田静香dot.
マイケルとEPIC・ソニー(当時)田中さんとのツーショット(田中章さん提供)

マイケルとEPIC・ソニー(当時)田中さんとのツーショット(田中章さん提供)

ウエルカム・パーティーにて当時のエピック・ソニー社員らと。マイケルの左隣が田中さん。右隣はマネージャーのフランク・ディレオ。マイケルの足もと、かがんでいる黄色いシャツの男性が清水さん(田中章さん提供)

ウエルカム・パーティーにて当時のエピック・ソニー社員らと。マイケルの左隣が田中さん。右隣はマネージャーのフランク・ディレオ。マイケルの足もと、かがんでいる黄色いシャツの男性が清水さん(田中章さん提供)

 マイケル・ジャクソンが亡くなってもうすぐ、ちょうど10年になる。2009年6月25日、極度の不眠のために医師による麻酔薬の過剰/複合摂取がされて心肺停止。病院に運ばれるも、米・西海岸時間の14時26分に死亡が確認された。享年50。死の18日後には、英・ロンドンで50回に及ぶコンサートが予定されていた。

【写真】初公開!ウエルカム・パーティーでのマイケル

 マイケルにはその死後も世間を騒がせるニュースやゴシップがあふれ、天国でさえ彼はおちおち寝ていられないかもしれない。つい最近も、マイケルの少年虐待疑惑のドキュメンタリー映画『リーヴィング・ネヴァーランド』が米・ケーブルTVのHBOで放映され、物議をかもしている。

 今、新しい時代を迎えようとしているこの日本で、昭和57年(1982年)12月5日に発売されて大ヒットしたアルバム『スリラー』でトップ・スターになったマイケル・ジャクソンという一人の偉大なアーティストの人間像が語られることは、ファンを対象にしたメディア以外では滅多に目にすることもなくなった。平成生まれの人たちにとってのマイケルは、“#MeToo運動の流れの中で告発された、小児性愛癖のとんでもない男”かもしれない。

 一体、マイケル・ジャクソンとはどんな人だったのだろうか? その死から10年、今一度探ってみたい。

「マイケルはステージで見せる自信に満ち溢れたスター像とは違い、普段はとても穏やかな人でした。スターにありがちな尊大さなんて全く見せません」

 そう語るのは、マイケルの日本での発売元であるレコード会社「EPIC・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)」で、海外との契約やマーケティングに関する交渉などを行う日本側の「国際部」に所属していた田中章さん。田中さんは国内外でマイケルに何度も会っている。

「1987年に来日した際、レコード会社主催の歓迎レセプションを開くことになりました。当時のEPIC・ソニーとCBS・ソニーでは、海外からアーティストが来日すると銀座のソニービルの地下にあったフレンチ・レストラン『マキシム・ド・パリ』でオフィシャル・ディナーを開くのが常だったんですが、マイケルはそうした儀礼的な席は好まないだろうと判断し、宿泊していた赤坂・キャピトル東急ホテルのスイートルームを借りて開くことにしました。僕の提案で、子供好きのマイケルだから社員も子どもたちを連れて出席してマイケルを迎えようとなり、うちの当時6歳だった娘にもミッキーマウスのTシャツを着せて一緒に出席しました。マイケルはこうした席だと恥ずかしがり屋で積極的に話をすることは少ないんですが、それでも『ありがとう』とその度に言って、疲れた顔を見せず記念撮影に応じてくれました」


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