「昔から思っていることをやろうと?」
「やろうということで、だんだんはっきりとしてきたと思いますね」
その後翁長氏は腹をくくったように、07年には沖縄戦の集団自決に日本軍が関与していないかのように修正された「教科書検定意見の撤回を求める県民」、09年の鳩山氏の普天間基地「最低でも県外」発言と「県外移設を求める県民大会」を経て、翁長氏は「オール沖縄」へと舵を大きく切っていく。そして14年12月、翁長知事が誕生し、正式に自民党を離党。
知事選に出ること、何より自民党と袂を分かって知事選に出ることは、翁長にとってそれまでの人生と決別するほど大きな出来事だったに違いない。しかもそれは、「自分は保守にいたからこそ、国を動かすのがいかに大変かわかっている」と翁長が語る、その国と果てしなく対立することにもなるのだ。しかしその一方で、それは基地をはさんで保守と革新が争うのをなんとかしたいという、子どものころからの自分の原点に立ち戻り、それを実現する一歩を踏み出すことにもなる。
市議会議員、県議会議員、那覇市長、県知事と歩んできたが、癌の発見以後、翁長氏は、全沖縄のために、本当にやるべきことに目覚めたのではないだろうか。
徹底して地元の意向を無視し、基地移設に邁進する政府に対し、県民を代表して拳を振り上げ続けたのだ。
知事になった翌年の15年5月に、3万5千人を集めて開かれた(辺野古移設反対の)県民集会。出席した翁長は、丁寧な言い回しながら、喧嘩するとき口にするような激しい沖縄弁を使って、あいさつをしめくくった。
「うちなんちゅー うしぇーて ないびらんど(沖縄をバカにするんじゃありませんよ)」
ほっそりしたその表情は、晴れやかにすら見えた。
沖縄は大きな精神的支柱を失った。