中村米吉(撮影/写真映像部・上田泰世)
中村米吉(撮影/写真映像部・上田泰世)

 2000年7月、7歳で初めて歌舞伎の舞台に立った。大学進学を機に「歌舞伎役者として真剣に勉強します」と各方面に挨拶に伺っていた時、二代目中村吉右衛門さん(21年11月他界)に、「君はこれからどうしていきたいの?」と問われた。

「先輩の女形で憧れた役がありましたし、亡くなった祖母に『女形なんていいんじゃない』と言われたこともありました。そもそも顔がこんな感じですので、それらの要素がからみあって、女形をやりたいと思っていますと答えました」

 それに対して、「そんな生半可なことではなれないんだよ」と吉右衛門さん。

「子どもの頃から徹底的に女形として学んできた方々に比べると、スタートラインにも立っていないわけで、吉右衛門おじさんには『周りの人から遅れていることを忘れずに、一生懸命やるしかない』と言われました。初代中村歌六は“傾城歌六”と言われたほど、一代で名を成した名女形です。でも江戸時代の話で誰も見たことがありません。曽祖父の三代目中村時蔵も女形として活躍していたと聞いているので、僕にとっては曽祖父のほうが大きなルーツとして感じられます」

 22年9月には、歌舞伎座で「秀山祭九月大歌舞伎」が行われ、米吉さんも出演。秀山祭は、二代目吉右衛門さんが初代中村吉右衛門の功績をたたえ、初代の演出や型を再確認し、芸を受け継ぐことを目的として06年に始めたもの。22年は3年ぶりの開催となったが、二代目吉右衛門さんの一周忌追善でもあった。

「ここに吉右衛門おじさんがもう本当にいらっしゃらないんだなと実感しました。おじさんは秀山祭に心血を注いできたものですから、おじさんがいなくなっても秀山祭ができたことは喜ばしいことでもあります。僕も播磨屋の一人として、一生懸命、精進を重ねていかなくてはと思いました」

 初代歌六に始まり、名歌舞伎役者を輩出してきた播磨屋の一人として、秀山祭への出演は身の引き締まる思いだったという。

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