

批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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6月23日は沖縄県の「慰霊の日」である。20万人が犠牲になった沖縄戦から75年が経った。皮肉なことに同日は現行の日米安全保障条約が発効した日でもある。同条約は今年で60周年を迎えた。
日米同盟は国際政治のリアリズムからすれば必要不可欠なものだ。けれども戦後日本の歪みを象徴する存在であることもまちがいない。同じ23日には米国ボルトン前大統領補佐官の回顧録が出版され、昨年7月、米政権が在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)を約4倍に増額するよう求めていたことが暴露された。日本政府は要求の事実を認めていないが、このような話が漏れてくることそのものが両国の力関係を示している。日本は米国と対等な同盟国ではない。
その歪みが集中しているのが沖縄である。沖縄には在日米軍の基地・関連施設の7割が集中している。上智大が4月に行った調査では、その状況を「差別的」とする意見が全国の有権者の6割近くを占める。施設を県外に分散すべきとの意見にも3割以上の支持が集まる。本土の有権者も現状に問題を感じている。にもかかわらず是正はまったく進まない。民主党政権の失敗で明らかなように、そもそもこの問題は日本の自由にならない。むろん本土には不作為の長い歴史と大きな責任がある。ただ、その背後には、米国が日本に無理をおしつけ、今度は日本が沖縄に無理をおしつけるという「いじめ」の連鎖に似た構造が横たわっている。
論理的に考えれば、その負の連鎖から脱出するには条約改正しかない。そして日本の主体的な意志で同盟や基地を再編するしかない。とはいえ、米国の軛(くびき)を離れた重武装の日本を近隣諸国が歓迎するかといえば、それもまたむずかしいだろう。日本が米国の「属国」であるほうが安心だという勢力は、国外だけでなく国内にも多くいる。かくして「いじめ」はいつまでも続くのだ。
戦後75年が経っても、日本は自国内の基地すら自由に配置できない。それが戦前の軍国主義が残した負債である。解決は提示できないが、6月23日にはせめてその歪みと加害への加担を直視しなければと思う。
※AERA 2020年7月6日号