「未来への不安? 僕はほとんどなかったです。自分の才能やチャンスとか、いろんなことを考えて途中で諦めていった仲間もいますけどね。特に役者には、経済的な悩みがつきものですから。でも僕は妙に楽観的で、『いつか、誰か僕を見つけてくれるだろう』と思っていた。経済的にも、僕らの時代は若者の働き口なんていくらでもあった」。
「その辺のサラリーマンよりいいお金取れるアルバイトがあって」と言うので、具体的な内容を聞くと、それがなんと銀座のラーメン屋の出前持ち。
「銀座の数寄屋通りにあったラーメン屋で、僕と大竹まことと斉木しげるが日替わりで、バーやクラブ、キャバレーに出前に行くんです。1回行けば5千円もらえる。半世紀前なのでね、大卒の初任給が4万円の時代に、週に3日働けばあとの4日はラクに暮らせる。効率の良いバイトでした」
風間さんが一番経済的なことで不安を感じたのは結婚した25歳のとき。共働きではあったけれど、いずれ子供ができたらと考えると、「役者で食べていけるのか」という不安がよぎった。
「でも、そこから事務所にも拾ってもらって、ポツポツ仕事が来るようになって、26歳でつかこうへいさんと出会うんです。彼の芝居が一大ブームになり、作品が映画化、ドラマ化され、その勢いで、僕や平田(満)も世に出ることができたんです」
つかさんの芝居は熱い。ステージ上に唾液や汗や涙が飛び散る舞台は、コロナ禍では上演しにくいものばかりだ。
「つかさん自身が、『芝居は汗と涙だよ! パッションだよ! ガッツだよ! 気迫だよ!』と、およそ演劇人とは思えないボキャブラリーで演出をつけていましたから(笑)。でも、僕が70を過ぎても『セールスマンの死』のようなタフな舞台に挑戦できるのは、つかさんに鍛えられた肉体が、まだまだ錆びていないせいかもしれないですね」
(菊地陽子 構成/長沢明)
風間杜夫(かざま・もりお)/1949年生まれ。東京都出身。早稲田大学演劇専修を経て、77年から、つかこうへい事務所作品に多数出演。82年映画「蒲田行進曲」で人気を博し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞など多数受賞。83年テレビ「スチュワーデス物語」の教官役で一世を風靡。テレビ、映画、舞台などで幅広く活躍。97年から落語にも取り組み、毎年数多くの高座に上がり独演会を開く。
※週刊朝日 2021年1月15日号より抜粋
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