不安が拭えない中、東京五輪が近づいてきた。近現代史研究家の辻田真佐憲さんに五輪開催について聞いた。
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私は一貫して東京五輪開催には批判的な立場ですし、現在の状況では開催すら難しいと思います。 当初から、東京五輪は大義名分が怪しいイベントでした。福島の復興を叫びながら開催場所は東京で、つじつまが合わない。戦後の高度経済成長時代を懐かしむような国威発揚と経済復興への期待も、空振りに終わるでしょう。あげくに、コロナへの対応策も不十分なままの見切り発車。菅首相は、苦し紛れに五輪開催を「人類がコロナに打ち勝った証しとする」とスローガンを打ち出しましたが、むなしく響くだけです。
そもそも五輪・パラ組織委会長として全体を率いていた森喜朗氏が、開催まであと半年に迫る2月に女性蔑視発言で世界的な批判を浴び、辞任に追い込まれた。そして五輪・パラの開閉会式典の演出責任者であった佐々木宏氏による女性タレントの容姿を侮辱する提案。「ブレインストーミングの場だからいいだろう」という意見もあるようですが、とんでもない話です。
五輪開催に固執すればするほど、日本は先進国としての威厳を失い、世界に恥部をさらし続けている。森氏の発言のあと、タレントの田村淳さんを皮切りに「なでしこジャパン」のメンバーの川澄奈穂美選手、俳優の香川照之さん、東京五輪マラソン男子代表の大迫傑選手など聖火ランナーの辞退者が次々に出ています。日程の都合を理由とする人もいますが、森氏の発言を引き金とした、「泥船からの脱出」でしょう。東京五輪への参加は、もはや栄誉にもなっていないのが現実です。
私が危惧するのは、開催でも中止でも国全体を覆うであろう同調圧力です。組織委側は、「開催さえすれば、世界の国も人びとも感動に包まれて成功として終わる。どうにかなる」と美談で幕を引けると考えているのではないでしょうか。そのストーリーに同調できない者は、「反日」のレッテルを貼られて非難される。
中止や縮小と判断した場合も同様です。「五輪を犠牲にしたのだから、自分たちも生活をより自粛しなければ」といったロジックの自粛圧力が強まるのではないかと危惧しています。
こうした状況の国を、先進国と呼んでいいのか疑問です。日本は世界に恥部をさらし、五輪という名前の「先進国としてのお葬式」を執り行う段階にまで突き進んだのです。もはや、たまった膿(うみ)を出し切ってしまうほうがいいのかもしれません。
(本誌・永井貴子)
※週刊朝日 2021年4月2日号