僕は昔、アメリカで「日本人は手先が器用でしょ。折り鶴を折ってちょうだい!」と言われました。自慢じゃないですが、僕は折り鶴は折れません(だから、自慢じゃないです)。
僕という個人を見ないで、いきなり「日本人」というフォルダーに放り込むと、実に話が早くなります。
「あなたは日本人なんだから、日本人は手先が器用なんだから、折り鶴を折ればいいの。以上!」という、秒単位の思考で物事が解決していくわけです。これは、なかなか爽快です。
逆に、「一般化」するマイナスは、目の前の人と具体的な対話ができなくなることです。
僕は経験ありませんが、友人はアメリカで、ビジネスの話でモメた時、「日本人は嘘つきなんだよ。パールハーバー(真珠湾)攻撃のだまし討ちを見れば分かるよ」と面と向かって言われたそうです。
こう言った瞬間に、そのアメリカ人は目の前にいる僕の友人と対話する可能性を手放します。これから先、前向きな関係を作ることは難しいでしょう。
当り前のことですが、個人にはそれぞれ事情があります。僕は信じていませんが、「血液型性格判断」でさえ、4種類あります。が、「女性は~」と「一般化」することは、個人の特性や違いを完全に無視することです。まるで「血の色が赤い人は~」と言うようなものですね。
個人のそれぞれの事情をちゃんと認めようというのが、最近よく言われる「多様性・ダイバーシティー」ということです。
とても素敵なことのようなイメージが広がっていますが、僕が繰り返し言うように「多様性はしんどい」のです。
相手を「一般化」せず、「多様性」の中でちゃんと違いを意識し、つきあっていくことは、大変なことです。
話は長くなるし、エネルギーも使います。だから、私達はつねに「一般化」の誘惑にさらされているのです。
疲れていたり、人生が行き詰まっていたり、悲しいことが続くと、「考えるのは嫌! とにかく秒単位で物事を決めたい!」と「一般化」のささやきが響くのです。
ちなみに言っておくと、「あなたは冷たい」も「一般化」です。「あなたは~しなかったから冷たい」は個別の事情を語っています。仕事を手伝ってくれなかったから、誕生日を忘れたから、感謝の言葉がないから、そういう具体的な事情を語ることが大切なのです。
だって、ただ「冷たい」と言われたら、どうしたらいいか分からないでしょう。「冷たい」と一般化されたら、あたふたするだけです。でも、「あなたは感謝の言葉がないから冷たい」と言われたら、「これからは、ちゃんとありがとうと言おう」という、やるべきことが分かるのです。