ところが、そのときの作品が、演劇界では権威のある岸田國士戯曲賞を受賞。劇団の評価も高まり、克実さんの舞台俳優としての道が、少しずつだが開けることになった。
「そこから今度は小劇場ブームが来て、“プロデュース公演”というのが増えはじめるんです。僕もいろんな劇団に呼ばれるようになって、本当にわずかですけど、ギャラをいただけたりして……。家賃の足しにもならないし、飲みに行ったらなくなっちゃうけど、ステージに出てお金をいただけることが、ありがたかったし、うれしかった」
当時、同じ劇団にいて、克実さんがものすごくシンパシーを感じたのが、今は映画監督になった森岡利行さんだった。
「彼は、映画やお芝居に詳しくて、毎日のように森岡さんの家で、映画とかいろんなものを観ていましたね。しかも誕生日が同じ4月1日! 彼のほうが1年先輩ですが、今考えると僕も当時は本当に生意気で。森岡さんも含め、毎晩のように演劇仲間と酒を飲んでは、『芝居をリアルにやるためには?』みたいなことを、徹底討論するような、そんな毎日を送っていました。あの頃、僕らは若かった。ハッハッハ! 今思い出すと、かなりこっぱずかしいです」
30歳を超えても、映画やドラマのオーディションに落ちては、また演劇に戻る日々を繰り返していた。アルバイトはやめられなかった。克実さんが、もう“青年”とは呼ばれなくなっていた頃、田山涼成さんと4人芝居で共演し、「克ちゃん、映像は興味ないの?」と、現在の事務所に紹介してくれた。
「田山さんのほうが10歳年上で、当時映像で活躍しながら、ご自分のプロデュース公演もやっていらっしゃって、なんとなくウマが合ったんだと思います」
(菊地陽子、構成/長沢明)
※週刊朝日 2022年9月16日号より抜粋