大正13(1924)年4月20日、宮沢賢治の生前唯一刊行された詩集「心象スケッチ 春と修羅」が出版されました。現在では知らない者はなく、多くの人に愛好されている宮沢賢治。しかし宮沢賢治の著作が今のように多くの人に当たり前のように読まれるようになったのは実は1980年代半ば過ぎごろからで、刊行からまもなく100年が経とうとする今も、賢治自身の生涯や人生については詳しく語られても、作品研究は底が浅く、厚みがないものなのです。「春と修羅 序」のまっとうな解釈すら、いまだになされていません。

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賢治の文章や思想は、体制派の都合や愛好家の自己投影でゆがめられてきた

童話作家であり詩人の宮沢賢治は、1896年(明治29年)8月、岩手県花巻に生を受けました。24歳のとき、在家日蓮宗系国粋主義の新興宗教団体「国柱会」に入会、それ以降、浄土真宗を信仰する実家の父と対立し、25歳の時には国柱会に身を寄せるために家出をしています。国柱会を立ち上げた田中智學(たなかちがく 1861~1939年)は、あの太平洋戦争のスローガン「八紘一宇」という言葉を広めた人物であり(ただし田中本人は反戦主義者でした)、また宮沢賢治のもっとも有名な文章(詩ではなくメモ帳の覚書き)は戦時下、滅私奉公・清貧推奨の鏡として政治的に利用されたことなどもあり、戦後の宮沢賢治の評価は右翼・軍国主義の加担者のイメージがつきまとい、決して肯定的ではなく、ファンも多かったわけではありませんでした。
1980年代、経済成長の鈍化や環境破壊の反省から「自分探し」ブームやエコロジーブームが起こり、それにマッチする要素を持つ賢治作品が見直され、文庫全集刊行やアニメなどの影響もあり、賢治フィーバーがまき起こります。現在の宮沢賢治人気はその頃に定着したものです。そして、宮沢賢治の作品や思想から、国柱会の国粋主義や日蓮宗への帰依や影響を極力縮小し、場合によっては消し去ろうという恣意的操作が多くの信者により企てられました。「雨ニモマケズ」の最後には、「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」と書かれており、死の間際の賢治が日蓮宗、国柱会への帰依信仰を堅持していたにもかかわらず、それを無視した論争や評価が横行し、「賢治は国柱会の活動や信仰には熱心ではなかった」という嘘や、信者の中には賢治を親鸞の人物像や思想と重ねることすら行われています。賢治は親鸞の浄土真宗を信仰する父との葛藤で生涯苦しんだことを思えば、こうした歪曲は賢治への冒涜ですらあります。
過剰な「宮沢賢治」という人物像への思い入れが、かえって作品への無理解や恣意的解釈に晒されている状況は戦前から、あの有名な谷川徹三×中村稔の「雨ニモマケズ論争」を経て現在まで続いています。
賢治文学、賢治思想の根源を賢治本人が真っ向から書いたものは、「農民芸術概論綱要」を除けば「春と修羅 序」しかありません。そして宮沢賢治はそこで素直に読みさえすれば決してわかりにくくは書いてはいないのです。では、読み解いてみましょう。

花巻 宮沢賢治童話村
花巻 宮沢賢治童話村

「わたくしという現象」とは賢治のことではない

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)

「序」の中でも特に難解とされる冒頭部分です。多くの人がまずつまづくのはまさに最初の言葉「わたくし」です。詩集の序文で「わたくし」と来れば、誰もがそれは宮沢賢治本人の自己紹介だと思うでしょう。そして、「わたしなんてものは不明確についたり消えたりしてる電燈みたいに頼りないものです。あなたもですよ」と言うような意味に取られがち。しかし賢治はここでそんな曖昧で情緒的なことを書いているわけではありません。「わたくしは」でも「わたくしという存在は」でも「わたくしなんてものは」でもないことにご注目ください。「わたくしという現象は」と書いているのです。気取ってるわけでも奇をてらってるわけでもありません。
ここでの「わたくし」は賢治自身のことではなく、「私が私であると感じること」=「わたくしという現象」なのです。つまり語られているのは「自我・自意識」とは何であり、どう出来上がっているか、です。賢治は自我・自意識を「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」であるとまず規定します。「透明な幽霊」とは何か。これは「青い照明」に対比しています。自意識という明かりがつくためには何が必要か。電球であれ星であれ、照明、つまり可視光線は、目に見えない(透明な)光子・光量子(幽霊)が集合して(複合体)発現するものです。目に見えない透明な数限りない光の粒が集まって星のように輝きだすように、数限りない透明な幽霊が集まってはじめて「わたくしという現象」となってともる、と言っているのです。
そしてそれはせはしくせはしく明滅=せわしなく生まれたり死んだり、壊れたり生成したりしているのに、「いかにもたしかにともりつづける」=まるで不変に変わらずこのまま「自分は自分、他者は他者」であるかのように感じ続けている、と言います。
透明な幽霊はさまざまな「わたくし」の一部に「せはしくせはしく」移り変わり、一方「わたくし」はともって(生まれ)消えて(死ぬ)終わるのです。これを「(ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)」とあらわしています。透明な幽霊=ひかりは存続し続けるが電燈=わたくしは消え去ってしまうものである、という理路を語っています。
生物の細胞は、ミトコンドリアレベルで全ての体験を記憶している、という説があります。とすると、分子、原子レベルでも、その体験した記憶はその者の死後も原子の中に損なわれず蓄積され、そして別の「わたくし」の一部になる、ということがあるともいえます。「透明な幽霊」として。
難解な序文の冒頭で語られている意味はそういうことです。
そして「有機交流」「因果交流」という言葉にあらわれる「交流」とは、今までの解釈でありがちの「いのちは関係しながら成り立っている」とか「人はさまざまなものから影響を受け、また与えつつ存在している」と言った一般論ではなく、ずばり「食」と「呼吸」、そして因果とは食い食われる関係で生じた食われる側の感情や痛みを食う側が自分のこととして受け取ることに他なりませんでした。

三陸鉄道 北リアス カンパネルラ田野畑駅(岩手県田野畑村)
三陸鉄道 北リアス カンパネルラ田野畑駅(岩手県田野畑村)

読み解く鍵は「食」と「呼吸」である

宮沢賢治は極端な菜食主義で、とある集いで刺身が出たときには「殺された魚が『こいつはせっかく死んだ俺の体を不味そうに食べている』と見つめている」と感じるほどの、「食べる」ことへの困難を抱えた人でした。これは逆に言うと、「食べる」ということが賢治にとってのっぴきならない重大な関心事であり、倫理観や思想の根源であることを示しています。
「序」の中にも、
これらについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は
宇宙塵を食べ また空気や塩水を呼吸しながら
と食べること、呼吸する描写が出てきます。生きているものの生理現象はもちろん、銀河や霊的存在(修羅)もまた、何かを食べ呼吸している。だからこそ、すべてのものは、かつてあれでもありこれでもあり、将来またあらゆるすべてに「なる」のです。それが
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなおのおののなかのすべてなのですから)
というくだりにつながっています。それは美辞麗句や教訓ではなく、この世の存在のありようを見れば、食べられ、食べる関係があることこそ自分が全てで全てが自分、という道理を自明のものとし、それを法華経はといている、賢治は感じていたのです。「雨ニモマケズ」にも「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と、食べ物のことが出てきます。賢治にとって「食べる」ことは楽しみでも快楽でもなく、この世界、生物たちとの「交流」であり、また同時にその「交流」は、賢治に食べられる生き物への義理を作り、その義理に対して報いるよう自らを強いる契約でした。
しかし、というかそれでありながら賢治が直面するのは、殺されるもの、食われるもの悲しみ、愛するものと別れるときの「私」の悲しみがどこから来るのか、ということでした。最愛の妹トシの死は、賢治の最高傑作「銀河鉄道の夜」をはじめ、童話・詩の数々の傑作を生み出すことになりますが、トシの死をうたった「永訣の朝」でもひとわんの「あめゆき」という食べ物(雪)をトシに持ち帰ることが詩の主旋律となっています。
「よだかの星」では、他の鳥からいじめられてダメージを受けていたヨダカは、夜口を空けて虫を食べていたときにふいに悲しみがこみ上げてきて、星の世界へと駆け上っていきます。「(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。)「よだかの星」より」一方、「なめとこ山の」では、殺し殺される関係である淵沢小十郎と熊たちとは互いに悲しみを分かち合う不思議な共感と慈愛の関係として描かれます。「雁の童子」では、天人たちは猟師に殺されるために雁に転生します。「銀河鉄道の夜」では、鷺取りに捕まる鷺は眠るように捕まえられ、自ら美味しい砂糖菓子へと変化します。
と、このように見ていくと、「殺し殺される関係が悲しい、つらい」と感じることはその者が修羅道にあるからである、と賢治が考えていただろうと推測できます。より解脱し、菩薩、如来へと高まっていけば、殺されることなどなんでもない、喜びであるという境地を賢治が希求していたことは明らかです。
やや高踏的で思弁的な前半部と比べ、後半では賢治らしいのびのびしたポエジーで、人間の歴史認識と科学の進歩が、そう思われているような普遍的客観性に基づくものではないことを説きます。これについては「春と修羅 序 後半を読み解く」にて、詳しく叙述したいと思います。
参照
日本の詩歌 宮沢賢治 中央公論社