
衝突した2人、のぶは「近距離家出」
目の前の仕事をこなしていれば、本当に向き合うべき問題を先延ばしできる。しかし八木の言うとおり、逃げている限り本当の成長はない。
今週は「成功」に対する考え方をあらためさせられるエピソードもあった。
のぶと嵩の同級生・康太(櫻井健人)が、のぶの母・羽多子(江口のりこ)に連れられて、東京にやってきた。戦地で現地の老婆からもらったゆで卵のおいしさが忘れられない康太は、その恩を、困っている人に返したいという思いから、食堂を開きたいと話す。恩を受けた相手に直接返すのではなく、別の誰かに渡していくという考えは、やなせたかしの「逆転しない正義」の根っこにある優しさだ。
歌が大ヒットすることや、テレビに出て人気になること。会社を設立することや、自分の夢を追いかけてつかむことだけが成功ではない。優しさを人に分けることもまた、成功のひとつ、幸せの形だと気づかされた。
この週のもう1つの象徴は「発酵」だった。パンも人も触りすぎると潰れる。のぶの「近距離家出」は、夫婦関係における絶妙な距離感だった。離れすぎず、近づきすぎず、向かいの部屋にいることで、お互いの存在を意識しながらも、それぞれが自分と向き合う時間を持てた。山でのぶが流した涙は、発酵が完了した瞬間だったのかもしれない。「自分は何者にもなれなかった」という絶望が、「それでもいいのだ」という受け入れに変わった瞬間。そしてその気持ちが、嵩の創作を再び動かしていく。
第21週、嵩が描いた「あんぱんを配る太ったおじさん」はまだ生まれたばかり。でもその存在は、競争ではない新しい価値観の可能性を静かに示している。
(澤由美彦)