
哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ニュース番組で、山尾志桜里の出馬会見と斎藤元彦の定例記者会見の映像を続けて見た。どちらもあまり内容のないものだったけれども、共通する教訓はあった。それは「公人は一般市民よりも知性と道義性においてよりきびしい規範を求められる」ということがもう日本社会では(日本だけではなさそうだが)、常識ではなくなったということである。昔も別にすべての政治家や官僚が一般市民より知性道義性において卓越しているということはなかった。でも、「そういうふうに見えるふりをする」くらいの配慮はしていた。「綸言汗のごとし」とまでは言わずとも、「言っていることの首尾一貫性に配慮する」努力はしていた。言い換えると、知的に見えること、誠実な人間に見えることが公人の条件であるということについての社会的合意は存在したということである。映像を見て、その意がもう消えたことを知った。
21世紀のある時期から、権力を持っている人間(とその取り巻きたち)は一般市民なら処罰される違法・脱法行為を犯しても処罰されない特権を享受するようになった。「権力を持つ」というのは「そういうこと」だと国民はぼんやり信じるようになった。一般市民よりも下品であったり、無知であったりすることは公人の瑕疵ではなく、むしろ「それでも公人でいられる」という事実そのものが彼らの権力基盤の堅牢さを証明していると人々は考えるようになった。民主主義後進国でよく見る光景である。たしか戦後日本は「民主主義の先進国」をめざしてきたはずだが、もうその努力は放棄したようだ。弱肉強食の競争では、知的で道義的であろうとする人の方が不利になるのかも知れない。たしかに「オレはワルモノだよ。嘘つきだよ。それがどうした」と居直る人間の方が正直者よりも生き残りバトルでは勝率が高そうだ。首尾一貫性などに配慮しないで言いたい放題言っている方が知的負荷は少ない。
若い人たちがそういう人たちの生き方の方が「楽そう」だと思って、ロールモデルにするようになれば、日本は着実に後進国に向かって退行することになるだろう。映像を見てそう思った。
※AERA 2025年6月30日号
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