哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 この原稿が誌面に載る頃にはもう総選挙は終わって結果が出ている。日本の有権者は果たしてどんな判断を下しただろうか。

 この間、民主政と選挙についていくつかの文章を書いた。直接には「今の政治状況に対する批判を白票を投じることで表現しよう」という主張に論駁したものである。

 白票は「現状維持に賛成」以上のことを意味しない。「おお、白票がこんなに多い」と政治家たちが驚いて、これまでのやり方を改めるということは絶対に起きない。これは「絶対に」という副詞を使って言い切ってよいと思う。「白票を投じろ」というキャンペーンをしている人たちは「現状維持でいいじゃないか」と言っているのである。そのことを覚えておこう。

「白票を投じろ」という理由は「候補者は全員ろくでもない人間ばかりで、自分の一票を託せる人がいない」ということだと思う。しかし、誤解している人が多いが、民主政というのは「自分の全幅の信頼を託せる代表」を選び出すことではない。「より少なく悪いもの(the lesser evil)」を探し出すことである。

 候補者ひとりひとりについて政治家としての適性を厳密に査定するのはよいことである。けれども、その査定は「投票するに足る候補者は一人もいない」という結論を導くためのものではない。そうではなく、「それでも一番まし」な候補者を見つけ出すためのものだ。

 選挙の後に有権者が「大喜びしている人」と「落ち込んでいる人」に二分するとしたら、それは選挙としては失敗だと私は思う。民主政というのは「全員が同じくらいに不満な落としどころ」を探り当てるために計量的知性を働かせる営みだからだ。

 民主政における公人は自分に投票した人たちだけではなく、自分に投票しなかった人たちの利害をも代表しなければならない。この公人の「痩せ我慢」と有権者の「不満顔」が対になるときにはじめて民主政は適切に機能していると言えるのだと私は思っている。

 そう聴くと、ずいぶん不出来なシステムのように思えるだろう。その通りなのだ。それでも、チャーチルが言ったように、民主政は過去のどの政体よりも「まだまし」なのである。

AERA 2024年11月4日号