幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
芹沢鴨が30数人の隊士を率いて、生糸商・大和屋庄兵衛方を襲い、大小7つの土蔵に火を放ったのは、文久三年(1863)八月十二日の夜から翌日の夜にかけてのことだった。
江戸時代、放火は重罪で、公儀の御用といえども火の取り扱いには万全の注意が求められていた。大和屋は御所の中立売御門から西へ800mほどの地点にあり、この暴挙に朝廷は激怒した。
これを受けて会津藩は近藤勇を呼び出し、芹沢の「所(処)置」(『新撰組始末記』)を命じている。処置とは排除であり、つまりは殺害である。これまでも酒乱とされる芹沢の傍若無人な行動に手を焼いていた近藤に、これを断る理由はなかった。
この記事の写真をすべて見るその後、八月十八日の政変、それにともなう残務処理で実行は遅れていたが、九月十六日に新選組が島原の角屋で総会を開き、ついに決行されることとなる。総会が終わり、一座に酒が振る舞われると、午後6時頃に芹沢は席を立った。屯所としていた壬生の八木邸で飲みなおすのだという。これに同行したのが芹沢の身内というべき平山五郎と平間重助で、土方歳三も彼らに従った。平山と平間は、それぞれ芸妓を連れており、芹沢は愛妾のお梅を八木邸に呼んでいた。
そこで彼らは盃を交わすのだが、土方が同行した目的は、芹沢らを酔いつぶすことにあった。やがて酔いが回った芹沢は酒宴を切り上げ、式台(玄関の上がり口)の北にある八畳間の一室に屏風を仕立てて区切りとし、その北側の床に芹沢とお梅、南側に平山と相方が入った。平間と相方は式台の西隣にある四畳半を寝所とした。