2004年の大統領選に際し、親露派の当選を不正だとする抗議する運動が勃発(オレンジ革命)。再投票の結果、親EU派政権が誕生した(写真・朝日新聞フォトアーカイブ)
2004年の大統領選に際し、親露派の当選を不正だとする抗議する運動が勃発(オレンジ革命)。再投票の結果、親EU派政権が誕生した(写真・朝日新聞フォトアーカイブ)

 18世紀後半、ウクライナの大半はロシアに併合されるが、西部に関してはオーストリア領となった。ロシア帝国時代、皇帝の専制によってウクライナのロシア化が進行していく。

 ウクライナ人に独立の機会が訪れたのは、1917年。ロシア革命である。

 帝政の打倒を受けて、ウクライナでも民族主義的な政府が成立したが、ロシアに成立したソヴィエト政府は独立を認めず、内戦の末にウクライナはソ連の一共和国となった。30年代初頭には、急進的な農業集団化と行き過ぎた穀物の徴発によって大飢饉(ききん)が起き、数百万人が命を落とす。民族主義や文化も抑圧され、ウクライナ人の政治家や知識人の多くが粛清の犠牲となった。

 80年代になってやっと、ゴルバチョフ政権下で自由化が進められ、ウクライナでも民族運動が高揚。86年のチェルノブイリ原発事故も、ソ連への不信を強めることになった。91年8月、ウクライナは独立を宣言し、ソ連は解体に向かう。独立後のウクライナは、経済的にはロシアに依存しつつ、政治的には親露派と親EU派がせめぎ合う状態が続いた。世論が親EUに傾いたのは、2014年のウクライナ紛争以後のことだ。

 プーチン政権は、キエフ大公国以来のロシア人とウクライナ人の同質性を強調するが、その思いとは裏腹に、ウクライナはロシアの強権的な姿勢を前に、かえって反発を強め続けていたのだ。

(構成/生活・文化編集部)