一方、政治家となった山谷さんがどんな本を書いてきたかといえば……「ジェンダーフリーが日本を壊す」「選択的夫婦別姓が日本を壊す」「性教育が日本を壊す」……などという本をバンバン書いてこられたのかなと思えばそうではなく、政治家となってからは著作がほとんどないのである。わずかに書かれた『日本よ、永遠なれ』『新しい「日本の歩き方」』 なども、ジェンダーフリーバッシングなどは主眼ではない。それは拍子抜けするほどである……。もしかして山谷さん、本当はジェンダーとか性教育とか、あまり興味ないんじゃないでしょうか……と思ってしまうほど、あれほど激しく攻撃していた人とは思えない寡黙ぶりである。

 私が20代でライターとして仕事を始めたとき、フジサンケイグループの隅っこのほうで仕事をもらっていた。頂点に立つ山谷さんは、働く女の先を歩いている人だと思っていた。結婚か家庭か、なんてことを女性に過酷に選択させていた時代である。働きながら子どもを育てる山谷さんの発信は、社会から求められていたようにも思う。

「勝ち気な私は、長い間自分が女であることを恨めしく思っていたふしがある。女として生まれたことを、何か大きな間違いをしたように感じていた。恥じ入り悔しがっていた。そのため通常の娘らしいスタンスで恋をすることもできなかった。自分が女であることをありのままに受け入れられるようになったのは、父の死後数年たってから。時に三児の母となり三十代後半となっていた」(『人生について、父から学んだ大切なこと。』)
 
 1991年、政治家になる前の山谷さんが40代のときに出した本に書かれていたことだ。女の子の枷(かせ)を誰よりも苦しく感じ、理不尽な仕打ちにのたうちまわった心情が率直に綴られている。こういう一文を読むと、「山谷さん、私たち同じ女じゃないですか……」と肩を組みたくなってしまうものだけれど、この13年後に、山谷さんは自民党議員として国会議員になり、ジェンダーフリーバッシングの急先鋒になっていくのである。いったい、この13年の間に……何があったというのだろう。山谷さんが国会議員になったのは、山谷さんが50歳になる年である。山谷さんが「女であることを受け入れて」から10年以上たっていたはずだが、他の女の生き方の自由を奪うような政治的信念はどのように生まれたのか。本当にそれは政治的信念だったのか。いつか、国会議員でなくなったときに、昔のような率直で自由な筆致でエッセーを書いてほしいと願う。

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韓国のバックラッシュ