批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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この夏に愛知県で開催される芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」が、出展作家の男女比を1対1にする方針を打ち出し話題となっている。芸術監督を務めるのはジャーナリストの津田大介だ。
社会的弱者の不利を是正するため、数値目標を定めて優遇措置を行うことをアファーマティブ・アクションと呼ぶ。津田が同アクションに踏み切ったのは、現代美術の業界に男女比の明らかな偏りがあったからである。津田は記者会見で、偏りを示す資料も提出している。
方針発表は反発も呼んだ。作品の巧拙に作家の性別は関係ない、数値目標はむしろ芸術祭の質を落とすのではないかとの批判である。
懸念は理解できるが、むしろ現状では男女比の歪みこそが芸術祭の質を落としていると理解すべきだろう。津田の調査によれば、現在日本では国公立美術館館長の9割以上が男性であり、また東京芸大教員の8割以上が男性である。いくら女性作家が増え女性美大生が増えたとしても、選ぶ側や教える側が男性に偏っていたのでは絶対に歪みが出る。まずは数合わせが必要だという津田の判断は正しい。
このような議論が出てくる背景には、芸術そのものの役割変化がある。現代美術に限らず文学や音楽においても、かつて芸術とは、技能や鑑賞の規則がある程度決まっており、巧拙の判断はそれにしたがえばよいものでしかなかった。だからジェンダーや人種を考えなくてもなんとかなっているように見えたのである。
けれどもいまや作り手も受け手も広がり、芸術は娯楽や政治的な主張とも交わるようになって、質の判断自体が一元的には下せなくなっている。その変化に対応するためには選ぶ側や教える側そのものを多様化させるしかないが、日本はその点で動きが鈍い。津田の発表はその状況に一石を投じたもので、業界外から芸術監督を呼んだ成果が最良のかたちで出たものだといえるだろう。
芸術は社会の鏡である。社会が多様化すれば芸術も多様化するし、作家の社会的背景も多様化する。肝心なのはその流れを止めないことである。
※AERA 2019年4月29日-2019年5月6日合併号