――16歳だった00年、オウムが「アレフ」に改称された時、教団を離れましたね。

 オウムとの決別は、故郷というか、育ってきた町を離れる感覚に似ています。教団を離れる決心をしたのは、父の時代とのギャップを感じ、教団内の人間関係に行き詰まったから。自然な流れでした。

――12年頃から母(56)との連絡が途絶え、長姉(36)や四女(25)たちとも絶縁状態が続くと聞きます。

 母が完全に私を見捨てたと受け取れる出来事があって以降、連絡がつかなくなりました。ただ、「母を守っていかなければいけない」という呪縛からは解放されたように感じます。姉や妹、弟たちは、この20年間ずっと苦しんでいる。少しでも元気でいてくれたらと思います。

――今はどうやって生活しているのですか。

 親代わりの40代半ばの男性と、2番目の姉(34)と上の弟(22)と同居して、和気あいあいと暮らしています。けんかもしますけど。もっとも、姉と弟は肉体的にも精神的にもボロボロな状況で、働くことができません。私が頑張るしかない。

 実は3月、心理カウンセラーの試験に合格したんです。その資格を生かし、世間から「悪者」扱いされている方々に寄り添っていきたいと思います。ただ、私がモンスター化された存在だから、向こうには会いたくないと思われるかもしれませんが。

――姉や弟には出版を反対されませんでしたか。

 もちろん反対されました。今まで苦労してきたじゃないの、顔を出して新たな注目を浴びるリスクを考えているのと。ただ、私が一生懸命に書いている姿を見て、反対だけど邪魔はしない、というスタンスに変わってきた。「昔のようにどこにも買い物に行けない状況にならなければいいね。一緒に出かけたいから」と言われました。

――今後も三女・アーチャリーと呼ばれ続けると思いますが。

 切っても切れないものですし、非難され続けると思います。ただ今回、名前と顔を出すことで、ようやく人生の次の章に行くという実感がわいてきました。これからの私にできるのは、一連の事件がなぜ起きたのかを考え、二度と起こらないよう見つめることだと思っています。

(聞き手/編集部・野村昌二)

AERA 2015年3月30日号に掲載、年齢肩書などは当時

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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