経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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「遅すぎて早すぎた」。ウィリー・ブラントの言葉だ。ブラントは、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)時代の大物政治家である。同国の第4代連邦首相(1969-74年)を務めた。
ブラント発言は、当時のイギリスに関するものだ。73年、イギリスはEU(欧州連合)の前身であるEC(欧州共同体)に加盟した。長い紆余曲折を経ての加盟達成だった。だが、時すでに遅しであった。そして、時期尚早だった。
戦後に欧州統合に向けての動きが始まった時、イギリスはそれに背を向けた。大陸欧州主導の超国家的体制。そんなものには組み込まれたくない。そう考えたからである。だが、発足当初の統合欧州の経済的躍進ぶりをみて、気が変わった。思い直して、統合欧州の門を叩いた。
ところが、フランスのドゴール大統領が頑としてイギリスの受け入れを拒絶した。イギリスは、しょせん、アメリカが送り込んでくるトロイの木馬だ。そんな回し者を統合欧州の懐深くに抱え込むわけにはいかない。これがドゴールの判断だった。
巨人ドゴールにそう出られてはどうしようもない。結局、イギリスの統合欧州入りはドゴールの死を待つ他はなかった。そして、73年についに念願かなう待望の時が来たのである。
ところがその時、EC経済は統合効果による当初の勢いを失い、不況に向かって坂をころがり落ちる局面に来ていた。黄金の成長経済圏に入るはずだったのに、イギリスを待ち受けていたのは、減速の連鎖できりもみ状態の低迷経済圏だった。不況の嵐が襲ってくる前に入っていれば。そして、不況の嵐が過ぎ去るまで待っていれば。かくして、遅すぎて早すぎたイギリスであった。
今、すったもんだしているイギリスのEU離脱も同じことかもしれない。今更の離脱は、EUとの関係が深くなりすぎていて遅すぎる。だが、もう少し待っていれば、ひょっとするとEUそのものの求心力が弱まって出やすくなっていたかもしれない。だから、踏み切るのが早すぎた。
哀れ、遅すぎて早すぎる者よ。こういうことは、何かにつけて起こりそうである。長き躊躇の後の拙速は怖い。気をつけよう。
※AERA 6月18日号