原さんが率直に尋ねると、
「表情一つ変えずに、『あったと聞いている』とはっきりおっしゃいました」
皇室内の微妙な問題も「タブー」にすることなくきっちり答える姿勢に、学者同士、対等な存在として接してくれたと感じたという。
こうしたリベラルな感覚は、すぐ上の兄である高松宮さまとも10歳差と、4兄弟=左チャート=の中で一人だけ年齢が離れているうえ、養育係ではなく大正天皇と貞明皇后のもとで直接、愛情を受けて育ったことと結び付けて語られることが多い。
しかし、原さんは言う。
「教育の違いだけでは説明できない。軍人としての体験も、大きいのではないか」
●戦争放棄を支持した
三笠宮さまは日中戦争開戦後、中国・南京で1年間、支那派遣軍参謀を務めたこともある。原さんによれば、兄弟の中で最も戦場に近いところに派遣されたのが三笠宮さまだった。
秩父宮さまは結核で療養中。高松宮さまについては昭和天皇が、「万一摂政を設ける必要が生じた場合、(高松宮)宣仁親王が軍務の関係にて海外に勤務する如きことがあれば重大な支障となる」と発言していたことが、『昭和天皇実録』(東京書籍)に記されている。
戦争中から、中国での日本軍の軍紀の乱れや残虐行為を批判し、終戦翌年の憲法案を採択した枢密院本会議では、「戦争放棄」を支持した三笠宮さま。「マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」などの理由で採決は棄権したものの、憲法の理念には共感していたという。(編集部・片桐圭子)
※AERA 2016年11月7日号