ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する
ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する
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※写真はイメージです (Getty Images)
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 ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「忍者」を取り上げる。

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 アイドル歌手ほどタイミングに翻弄される職業はありません。どんなにポテンシャルが高く、楽曲に恵まれても売れない人は“ごまん”といます。その逆も然り。己の旬やピークはおろか、時代の移ろいもコントロールできない状況の中、一瞬一刻に全身全霊を込める。言い訳は一切無用。それがアイドルです。

 バブル真っ盛りの87年にデビューした光GENJI。その人気は正真正銘の社会現象と呼ぶにふさわしいものでした。彼らの全盛期は87年から90年までの4年間。たったの4年と思うでしょうが、時代が昭和から平成に変わり、80年代が終わり、世界の頂点を極めた日本経済がそのバブルの終焉を迎えるまでの実に濃厚な4年間を、彼らはローラースケートの上で歌い踊っていたのです。

 光GENJIの登場によって、80年代を席巻し続けてきたジャニーズアイドルの猛攻が一度「打ち止め状態」を迎えたのもまた事実。特に少年隊・光GENJI・男闘呼組の人気が一段落した91年は、CDの売上が急激に伸び、『ラブ・ストーリーは突然に』『SAY YES』『あなたに会えてよかった』などのドラマ主題歌が次々とミリオンセラーを記録する一方で、男性アイドル市場は衰退の一途を辿った年でした。彼らの主戦場であった歌番組もすでにほとんど姿を消し、アイドルといっても織田裕二や吉田栄作ら若手人気俳優がヒットを出すぐらい。

 そんな「魔の91年」の前年にデビューしたのが、「もっとも時代の辛酸を舐めたジャニーズ」として後世に語り継がれる『忍者』です。世はバンドブーム全盛。と同時に『おどるポンポコリン』や『リゲインのテーマ』、はたまた植木等の『スーダラ伝説』といった好景気に浮かれる様を客観的にネタ化したような企画モノが流行る中、唐突に美空ひばりの楽曲を盛り込んだ和テイストを売りにレコ大最優秀新人賞を獲るなど、80年代のジャニーズ快進撃の流れを踏襲するも、2年目から見事に失速。一度でも華々しい光景を世間に刻んでしまったアイドルが再び人気を取り戻す潮目は当時の日本にはありませんでした。90年と91年、このたった1年の差がどれだけ大きな運命の境目だったか。もし忍者のデビューがあと1年遅かったら……。奇しくも91年にデビューしたのがSMAPです。前年の忍者と比べても、彼らのデビューは「誰からも見向きもされなかった」に等しいものでした。しかし「誰の記憶にも残らない時期」にデビューしたからこそ、SMAPは新時代のアイドル像を一から築き、数年後の大ブレークに繋げられたわけで、仮にSMAPのデビューがもう1年早かったらと思うと、これまた感慨深いものがあります。

 ちなみに忍者は、2年目以降もコンスタントにリリースを重ね、光GENJIやSMAPとともにSMAPブレークまでの「ジャニーズ氷河期(91年~93年)」を支えました。改めて聴くと歌唱力も高く、良曲がたくさんあることに気付かされます。92年リリースのアルバム曲『ジャニーズワールドへようこそ』なんて、もしSMAPが歌っていたら今頃ジャニーズの社歌になっていてもおかしくないくらいの名曲。いかんせん「忍者」というガチガチのコンセプトが、フリースタイル主流の90年代には気の毒なほど時代錯誤だった。誰だ、「90年代は個性の時代」なんて言ったのは。

週刊朝日  2019年10月4日号

【週刊朝日編集部からのお知らせ】
いつも『アイドルを性(さが)せ!』をご愛読くださり、ありがとうございます。この連載は2016年5月から週刊朝日で始まりましたが、このたび書籍化して、単行本『熱視線』(本体価格1400円)として発売されました。連載の内容を大幅に加筆修正し、ミッツさんご自身が描いているアイドルの似顔絵(AERA dotでは未掲載)も収載しています。装丁にもこだわりました。毒と愛を込めて作った一冊です。ぜひ、紙の本でじっくり味わってお楽しみください!