医師、弁護士、科学者……「宗教国家」を夢想した麻原彰晃の下には、高学歴で才能あふれるエリートが集まっていた。6日に死刑が執行された、「サリンを製造した『狂気』の化学者」土谷正実死刑囚と、「出家2カ月後に坂本事件に関与」した中川智正死刑囚。地下鉄サリン事件から17年となった2012年。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、オウム真理教を徹底取材。麻原の操り人形として破滅へと堕ちていった彼らの、封印されたプロファイルをひもとく――。
*「グル(麻原彰晃)の指示なら、人を殺すことも喜び」<教団エリートの「罪と罰」(2)>よりつづく
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■サリンを製造した「狂気」の化学者
<土谷正実(つちや・まさみ)>
(1)生年月日:1965年1月6日
(2)最終学歴:筑波大大学院化学研究科中退
(3)ホーリーネーム:クシティガルバ
(4)役職:第2厚生省大臣
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):正悟師
化学者としての将来が期待された「頭脳」は、教団の凶悪犯罪の代名詞となる毒物を作り出した。
東京の都立高校を卒業し、1984年、筑波大学農林学類(当時)に入学した。化学に興味を持ち、88年に同大大学院へ進学して、有機物理化学を専攻。「非常に研究熱心」だったという。
オウムとの出合いは大学院2年の時。同乗していた車での交通事故がきっかけだった。むち打ち症になり、知人に誘われ、水戸市内にあったオウムのヨガ道場に通うように。周囲には、
「オウムには大学以上の設備がある。1日に20時間以上も研究できる」
と嬉しそうに話していた。
修士論文は提出したものの、研究室からは足が遠のいていった。オウムにのめり込み、1日1回しか食事をとらず、朝から晩までアルバイトをして、収入を教団に布施していたという。両親は脱会するよう再三説得し、茨城県内の更生施設へも入れた。しかし、すきを見て抜け出し、91年に出家した。