明治4(1871)年に岩倉具視を特命全権大使とした岩倉使節団。右端に座るのが大久保利通 (c)朝日新聞社
明治4(1871)年に岩倉具視を特命全権大使とした岩倉使節団。右端に座るのが大久保利通 (c)朝日新聞社
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 大政奉還から150年を記念して、幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、大久保利通の曽孫・大久保利ひろさんだ。

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 大久保利通は私の曽祖父にあたります。2017年は「大政奉還150年」ということですが、私たち大久保家にとっては翌18年の江戸時代を経ての「明治維新150年」ですね。

 薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、西郷隆盛と共に成長し、幕末をくぐり抜けて明治維新を推進していきますが、盟友であった西郷とは征韓論で対立、敗れた西郷は政治の中枢から辞し、このとき二人は決別したとされています。その後、西南戦争では西郷は政府軍の前に敗北を知り、自害してしまいます。利通は西郷が挙兵するはずがないと最後まで信じていましたが、挙兵を知ったときは西郷を説得できなかったと悔やみ、それと同時に永遠の別れを覚悟していたと思います。利通が暗殺される直前に西郷からの手紙を読んでいたとも言われていますしね。ただ、西郷は大久保なら自分ができなかったこと、やり残したことを必ずやってくれるはずだと願っていたと思いますね。また利通は「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言っていたぐらいです。西郷と利通は本来はクルマの両輪のような関係だったのです。

 余談ですが、利通のことでよく聞かれるのは大久保家と西郷家との関係です。利通の妹の孫のところに、西郷家からお嫁さんをもらい、大久保家と西郷家は親戚関係になっています。

 岩倉使節団の副使としてアメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどを訪れますが、身長が178センチと当時としては長身だったこともあり、なじみやすかったようです。フランスでは家具のカタログを手に入れましたが、よほど興味があったのでしょう、帰国後に机を作らせています。その他にフランス製の陶器の灰皿やガラスの洗面器なども購入していますが、いわゆる「西洋かぶれ」ではなく、実用を重視して自分に合ったもの、使い心地のよいものを取り入れていたにすぎません。手紙は最後まで筆で書いています。ただ利通が使っていた硯や印鑑は大きな体に似合わず小ぶり、本当に小さなもので驚きました。

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