その元親も、秀吉の後を追うように慶長4(1599)年に伏見の土佐藩邸で死去した。時代は風雲急を告げていた。

 そうした中で、家臣団が結束できないまま、天下分け目といわれる関ケ原の戦いに突入する。盛親は、「父親の元親が家康と入魂(じっこん)であった」ということから、いったんは家康に味方すると決めていながら、石田方に与(くみ)するといった不本意な結果となり、関ケ原の戦いは負け戦となる。長宗我部家は、家康により改易されてしまう。

 盛親が土佐一国の大名であったのは、わずか2年足らずであった。

 その後は、家康から「召し放ち」という処分を受け、牢人となる。ただ、家康も改易当初は盛親に「御堪忍分」として、知行地を与えるつもりであったようである。だがそれもいつの間にか消え、盛親は豊臣秀頼の誘いを受けて、大坂の陣に大名家復活の夢を賭ける。しかし、これも負け戦となり、京都・六条河原で斬首された。

 盛親の遺骸は京都・蓮光寺の蓮光上人が所司代の板倉勝重からもらい受け、葬った。なんとも無念な生涯であったであろうと思う。

 今年6月には蓮光寺で、盛親の没後400年の遠紀法要があり、100人ほどの方々が参列した。また、長宗我部家を祀る高知の秦神社でも、今年5月に慰霊祭が行われ、400年の時を超えて、不運の勇将を偲んだ。

週刊朝日 2015年12月25日号

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