地下防空壕(ぼうくうごう)の工事には昭和天皇も参加したという(※イメージ)
地下防空壕(ぼうくうごう)の工事には昭和天皇も参加したという(※イメージ)
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 宮内庁は1日、「玉音放送」の原盤とともに、天皇がポツダム宣言受諾を決断した「御文庫(おぶんこ)付属室」の画像を初めて公表した。城郭研究家の藤井尚夫氏によれば、その地下防空壕(ぼうくうごう)の工事には昭和天皇も参加したという。藤井氏に聞いた。

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 日米開戦の数カ月前、1941年の夏。東条英機陸軍相は、昭和天皇の防空施設となる「御文庫附属室」の建設現場を視察した。

 東条陸相が生コンクリートを流し込む建設現場を視察するなか、ふと板塀に目をやると、わずかな隙間から御文庫のプールが見える。となると、工事に関わる兵士たちも天皇、皇后の水泳姿を見ているわけだ。兵士が「あれ陛下じゃないか」とヒソヒソ話す光景も現場では目撃されていた。東条陸相は無言で板きれを拾うと、兵士の持っていた金づちと釘を取り上げて、トントンと隙間を塞いでしまった。周りにいた人は、そのせっかちさにあぜんとした──。

 そう話してくれたのは、御文庫附属室の設計者である浄法寺朝美(じょうほうじ・あさみ)さんでした。93年に、陸軍築城本部大佐だった彼にお会いしたとき、聞いた話です。当時90歳前後でしたが建築関係の専門学校の現役講師。戦後に書き起こしたメモや、御文庫附属室のスケッチなど資料も見せて頂きました。当時、軍は要塞(ようさい)建築を築城と呼んでいました。この築城本部は明治以降、関門海峡要塞や東京湾要塞など全国の海岸要塞の近代化を進めた技術者集団です。彼らがつくった日本で最強の防空施設が、今回公開された昭和天皇の防空壕でした。

 要塞設計のトップエリートが設計し、陸軍が工事を担当したのです。調べるほどよくできた施設です。内部には最大で厚さ35センチの鉄扉も使われました。しかし通路の鉄扉は、防弾式ではありません。西側の出入り口付近で爆弾が破裂した際に、爆風がU字の廊下を通り抜け、東側出入り口の鉄扉を吹き飛ばす。つまり爆発のエネルギーが、室内に入らないよう設計されていた。機械室には毒ガスの濾過(ろか)装置も置かれました。空調の流れも考え抜かれ、毒ガスで攻撃を受けてもすぐに中和され、昭和天皇の部屋には流れない仕組みです。

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