東日本大震災から4年。宮城県に、最もはやく集団移転を実現させた地区がある。みんなでつくる、真新しい故郷だ。
「やっぱりわが家はいいね。震災から4年。ようやく一段落がついた」
引っ越してきたばかりの真新しい家の前でほほ笑みながらそう話すのは、宮城県岩沼市玉浦西に住む菊地幸一さん(66)だ。
岩沼市沿岸部は東日本大震災で高さ7メートルを超える津波の被害にあった。六つの集落(相野釜、藤曽根、二野倉、長谷釜、蒲崎、新浜)は壊滅的な被害を受け、200戸以上の家が流された。
「生まれ育った故郷は跡形もなく消え去り、知人や友人も亡くなった。でも落ち込んでばかりいても仕方がない。仮設住宅へ移って間もなく集団移転の話し合いが始まった」(菊地さん)
2011年11月、岩沼市出身で市の震災復興会議議長だった中央大学の石川幹子教授(当時は東京大学教授)の協力のもと、新しい街づくりのために住民たちが集まった。
「まずはみんなで津波に襲われた故郷を歩くことから始めた。これからの話し合いを円滑に進めるために、一人ひとりの体験を共有することが大切だと考えた」(石川教授)
街歩きの後、新しい街の具体的なアイデアを出し合うワークショップが開かれた。
「集落ごとに移転したい」「集落のシンボルを造りたい」「井戸端会議ができる場所が欲しい」
住民からは次々に自由なアイデアが飛び出した。
「意見が食い違うこともあったが、話し合いは揉めずに順調に進んだ。心の中に『被災者同士』という仲間意識があったからだと思う」(菊地さん)
移転先に決まったのは、海岸から内陸に3キロほど入った玉浦西地区。約20ヘクタールの田んぼを2メートルかさ上げして住宅用地を造成した。ここに、336世帯約千人の真新しい街ができた。
15年2月11日、玉浦西地区の一画にある災害公営住宅の鍵の引き渡し式が行われた。数十戸以上の集団移転事業が完了するのは、被災地では初めてだ。
公園や街路にはイチョウやソネの木など各集落のシンボルが植えられ、集会所や貯水池なども造られている。住民たちのアイデアや思いが街に反映されている。郷土特有の屋敷林「居久根(いぐね)」も再現される予定だ。
蒲崎出身の森仁志さん(67)は、「やっと街が形になって嬉しい。住民がばらばらにならずに良かった」とほほ笑む。だが課題も残る。震災を経て、より強固になったコミュニティーの存続だ。
「居心地のいいわが家から、住民が出てこなくなった。仮設住宅では寄合所でお茶を飲みながら新しい街について頻繁に話し合った。家が建って街ができても、つながりが途絶えては意味がない。この地で次の世代に渡せるようなコミュニティーをつくっていきたい」(菊地さん)
玉浦西の新しい故郷づくりは始まったばかりだ。
※週刊朝日 2015年3月20日号