戦後、日本本土ではさまざまな反対運動が起きて、米軍基地の多くが本土から沖縄に移されていきました。しかし、自分(本土)の庭からやっかいな問題が取り除かれれば、それでよいのでしょうか。同じ日本人でありながら、本土と沖縄の間に横たわる悲しい歴史は、今の基地問題に通じています。亡くなった大田さんのメッセージを、今を生きる私たちがしっかりと受け止め、考え続ける責任があるのではと強く感じています。
みなさんが沖縄に旅行に行くことがあれば、ぜひ沖縄戦を記録した「沖縄県平和祈念資料館」を訪ねてみてください。美しい海や水族館といった観光地の姿とは異なる、沖縄の姿を知ることができます。
■大田昌秀さんインタビュー
<銃一丁と手榴弾2個を持って戦場に送られた>
沖縄戦当時、大田昌秀さんは師範学校に通う19歳。未成年でしたが、戦況が悪化したことで戦うことを求められました。本土から来た日本兵から、銃1丁と120発の銃弾と2個の手榴弾を持たされて、肌むき出しの半袖半ズボンで戦うことになったといいます。
<「泣きやまないなら殺せ!」と味方であるはずの日本兵が…>
大田さんは、戦場で胸をえぐられるような場面に何度も直面しました。それは、敵からの攻撃だけでなく、味方であるはずの日本兵からの圧力でした。
避難していた壕では、本土の兵隊たちが入るために県民が追い出されたり、子どもが怖がって泣くと「敵に見つかりやすくなるから、泣きやまないなら殺せ!」と、母親から無理やり子どもを奪い取って銃剣で刺し殺したり……。
【メモ】
大田さんは「(戦後の)基地問題をめぐる“沖縄の怒り”というのは、そういう体験がもとになっている」と語ります。
【今回のポイント】
□ 1945年6月23日は、沖縄戦の組織的戦闘が終結した日。沖縄県では「慰霊の日」と定められ、休日となっている。
□ 沖縄戦では、敵である連合国軍からの攻撃だけでなく、日本兵から圧力を加えられることもよくあった。
□ 1972年、沖縄が日本本土へ復帰した後も、多くの米軍基地が沖縄に集中したままである。
※月刊ジュニアエラ 2017年8月号より