トイレで下半身を点検すると、右膝の外側に5センチほど丸くえぐれた傷があった。赤いが血は流れていない。傷をティッシュで押さえつつトイレの引き戸を開けて外をうかがうと、クマはいなかった。
幸い血管は切れておらず、数針縫う「軽傷」ですんだが、医師に「血管が切れていたら、死んでもおかしくなかった」と言われた。翌朝まで断続的に体がブルブルと震えた。傷の痛みは全く感じなかった。非常時の体は、震えることも、痛みを感じることも後回しにしてしまうようだ。
クマの目的は私が持っていた食料だった。翌朝、現場に残されたテントやザック、寝袋などを集めてくれた同行者によると、クマはレトルトカレーやパックごはん、行動食など3日分の食料を一つ残らず、なめるように食べ尽くしていたという。包装紙などのゴミはテントの下にまとめて置いてあったそうで、ある意味、マナーがいい。ペットボトルのスクリューキャップも開けていた。器用で賢い。
あとでわかったことだが、私が襲われる前の晩も家族3人がいるテントがクマに襲われ、食料を奪われていた。この家族は逃げて無事だったそうだ。これを知ったとき、怒りがこみ上げた。受付では「クマが出るから気をつけて」としか伝えられていなかった。この件を知っていたら、少なくともテントサイトの角地にテントを張ることはなかった。本来、その翌日からキャンプ場を閉鎖すべきだったのではないか。さらに私が襲われた晩も、その前後に同じクマが有人テントを襲っていたそうだ。キャンプ場の管理者は、この非常時にも警告を発することはなかった。起こるべくして起きた事故。これで死んだら、死んでも死に切れないと思った。
人間の食料や残飯を食べたことのあるクマは、その味を覚えて人を襲うようになってしまうと聞く。このクマも例外ではないだろう。当時、Twitterの投稿に、山の経験の浅い人が食料管理を怠ったために被害にあったという憶測が飛び交い、不本意に思っていた。ヒグマのいる北海道は別として、日本では、登山者は食料をテント内で保管するのが主流だ。原因は直近の食料管理の問題ではなく、それ以前に作られていたはずだ。
上高地は登山者だけでなく、日帰りの観光客も多く訪れる場所。身近な公園と同じ感覚で、残飯の入った弁当ガラをゴミ箱に捨てる人はめずらしくないだろう。そうしたゴミをクマが食べていた可能性は高い。夜、キャンプ場のゴミ箱をクマが漁っている様子もキャンプ場のビデオカメラに収められている。
私を襲ったクマは、後日、麻酔銃を受け、遺体で発見された。このクマも被害者だ。人間の一人として申し訳なく思う。
アメリカ在住で、大陸分水嶺の山々を縦走したことのある知人によると、縦走時には、筒状の食料保管コンテナを担ぎ上げ、テントと十分距離を置いた場所に置いて食料を保管するのが常識だそうだ。日本の常識とは異なるが、野生動物の尊厳を保つためにはそこまでの覚悟が必要なのかもしれない。
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