1949年、東京大が新制大学としてスタートした年、新制の開成高校は7人の合格者を出した。その後、毎年コンスタントに合格者を出し、1962年に67人を数える急成長ぶりだった。同年の都立日比谷高校の186人には遠く及ばなかったが、開成の勢いは止まらなかった。
1975年、合格者が初めて100人に達する。1977年、開成は初めてトップに立つ。なお、このとき岸田文雄総理は東京大に挑んだが、合格はかなわなかった。
東京大合格者数が増えた背景
東京大合格者数が増えた背景について、開成は創立記念誌で説明している。
「都立に導入された学校群制度や他校における高校紛争、さらに西日暮里駅の開設などを背景に、都内や近隣から優秀な生徒が集まるようになったことに加え、教員の熱意、生徒の努力、保護者・卒業生の後援などが渾然と一致して成果をあげ、優れた進学状況を生み出す・・・」(「開成学園創立140周年記念誌 ペンと剣の旗の下」2011年)
少し解説しよう。
(1)学校群制度とは1967年から都立高校に導入された入試制度で、学校「群」の合格者は受験生の意思はまったく尊重されず、機械的に入学する高校へ振り分けられた。したがって、進学校の日比谷、西、戸山など希望する高校には進めないことがあるため、「優秀な生徒」は都立の学校「群」での受験を嫌い、開成、麻布、東京教育大附属、東京教育大附属駒場など進学校に進んだ(校名は当時。このとき麻布は高校入試があった)。
(2)高校紛争とは、1960年代後半、進学校を中心に、受験戦争への批判、学校管理体制への反発、ベトナム戦争反対などから、高校をバリケード封鎖するできごとを指す。これによって授業が行われず、進学指導に支障を来した学校がある。日比谷、千葉、麻布などだ。
(3)西日暮里駅の開設は、1970年前後に開成の真ん前に営団地下鉄、国鉄(JR東日本)の西日暮里駅が誕生し、その後は地下鉄千代田線の小田急線乗り入れ、つくばエクスプレスの開業などで千葉、神奈川、茨城の「優秀な生徒」は通いやすくなった。
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