毒親に育てられたことを赤裸々に描いたコミックエッセイ『毒親に育てられました1〜3巻』(KADOKAWA)が反響を呼んだ、つつみさん。その続編でもある『毒親に育てられた私が母になる』(同)では、毒親育ちだからこそ感じる不安や、新たな家庭を築く喜びを描き、多くの共感を呼んでいます。現在子育て奮闘中のつつみさんに、これまでの紆余曲折やマンガを描き始めたきっかけ、読者の反響について語ってもらいました。※後編<「毒親に育てられた私が子どもを産むなんて」と葛藤したことも 1児の母が前向きになれた「きっかけ」とは>へ続く

MENU 高校卒業まで続いた暴力的な母とのふたり暮らし なかなか踏み込めなかった「絶縁」 毒親に悩むフォロワーから相談がくることも

高校卒業まで続いた暴力的な母とのふたり暮らし


――幼い頃からの壮絶な体験をありのまま描いたコミックエッセイが反響を呼んでいます。つつみさんが生まれたときからお母さんは“毒親”だったのでしょうか? 

 2歳のときに両親が離婚して、しばらく母方の祖父母の家に預けられていました。ところが年少か年中のころ、突然母が迎えに来てふたり暮らしが始まったんです。本当に初期のころは、久しぶりに会えたからなのか「かわいい、かわいい」としてもらえたことをなんとなく覚えています。でもその期間はすごく短くて。だんだん母の本性が見えてきて、身体的、精神的暴力が始まりました。母の仕事のイライラや、頼れる人がいない状況へのストレスが、すべて私に向けられたんです。叩くだけでなく、言葉で罵ったり、人権を無視した発言を浴びせてきたり、人間関係を制限されたりしました。母とのふたり暮らしは高校を卒業するまで続きました。

――子どものころ、誰かに助けを求めることは難しい状況だったのでしょうか。

 本当に小さい頃は、自分がされていることがひどいことという認識がなかったんです。子どもにとっては親がすべてですから。これが普通だと思っていたので、誰かに相談しようという発想がなかったですね。母の暴力による傷やあざが手足の見えるところにできたこともあったのですが、虐待に敏感な時代ではなかったこともあり、周りから虐待を疑われたことはありませんでした。活発に遊んでいる子、という印象でとらえられていたのかなと思います。

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大楽眞衣子
大楽眞衣子

ライター。全国紙記者を経てフリーランスに。地方で男子3人を育てながら培った保護者目線で、子育て、教育、女性の生き方をテーマに『AERA』など複数の媒体で執筆。共著に『知っておきたい超スマート社会を生き抜くための教育トレンド 親と子のギャップをうめる』(笠間書院、宮本さおり編著)がある。静岡県在住。

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