ビビビッ!と電波を照射して敵を殺傷する「怪力(くわいりき)光線」は、最初の音を取って「ク号」。敵の軍用犬を「悦(えつ)」に入れ、吠えなくさせる薬剤は「エ号」という隠語で呼ばれた。

 日中戦争の始まり(1937年)から第2次大戦の終わりまで、現在の明治大学生田キャンパス(神奈川県川崎市)にあった陸軍「登戸(のぼりと)研究所」で開発されていた「秘密兵器」の一部だ。

 最盛期で約1千人が勤務したこの施設(正式名・第九陸軍技術研究所)で何がなされたかは、戦中・戦後と長く秘匿されてきた。しかし、80年代後半から、地元住民や高校生たちが関係者を訪ねるなどして少しずつ事実を発掘。その成果や関係者へのインタビューをまとめたドキュメンタリー映画「陸軍登戸研究所」が公開されるなど、戦争の記憶の風化が進む現在、戦争の“裏面史”に改めて関心が集まっている。

 元所員たちによると、秘密兵器には海外のスパイ小説や映画から着想を得たものも多い。ペンの先から毒針を飛ばす「万年筆型破傷器」、缶の中に時限爆弾を忍ばせた「缶詰型爆薬」、雨傘が火を噴く「放火謀略兵器」。敵国の穀物や家畜を病気にする生物兵器や、暗殺を目的とした毒物兵器などの開発も進められた。

「入所したらまず、ここで見聞きしたことは絶対に誰にも話すなと言われました。お世話になった学校の先生に登戸で何をしているのかと聞かれ、『言えないんです』と答えたら、『日本にもそういうところがあるんだな』と言われました」

 東京府立工芸学校(現都立工芸高校)の推薦で、39年の卒業とともに工員として採用された川津敬介さん(91)は、そう思い起こす。

 怪力光線など実用化に至らなかった兵器も少なくないなか、実際に使われた秘密兵器に「風船爆弾」(「フ号」)がある。こんにゃくのりで和紙を張り合わせて作った直径約10メートルの気球に、爆弾や焼夷弾を吊るした。終戦までの2年間に約9300発を米国に向けて放ち、1千発以上が到達したとされる。実行はされなかったが、家畜牛を狙った生物兵器を着けて飛ばす計画もあった。

 同研究所近くの国民学校高等科を43年に卒業し、15歳で見習工として入所した太田圓次(えんじ)さん(85)は、翌年2月から2カ月間、千葉県の海岸近くに造られた「放球台」で、風船爆弾に15キロ爆弾を装着する任務に携わった。上昇し始めた気球が海風にあおられて横に飛び、近くの民家や樹木にぶつかることもあった。そうしたときは、あわてて車で追いかけ、導火線を切断したという。

「爆弾を飛ばしていたわけですが、気球を安全に上昇させることばかり考え、敵を攻撃しているという感覚はまったくありませんでした」(太田さん)

AERA 2013年9月2日号