「枯」という字は文字通り枯れる、という意味の他に生気のない、乾いた様を表しているそうです。一方、「壮」という字にはさかん、つよい、いさましい、大きい、大きい男、戦士、などという意味があるとか。

 私は今年で41になります。年齢だけ見れば、若い、というにはやや薹が立っております。ですが、老いている、という年でもありません。

 今でも20代の時よりも激しく運動することはありますし、ここ一番での馬力も若い時に劣らない。しかし、疲れが中々回復しなかったり、外に出て誰かと遊ぼうという気力が湧かず庭のオクラを眺めて一日を過ごしたりもします。若い頃とは明らかに違う変化が、やはり生じているのです。

 多くの人はいきなり老いるわけではありません。日々のちょっとした変化の中で、老いを重ねていく。今は40代ですが、50、60と齢を重ねていくうちに、自分が老いとどう生きているのか、実に興味深いものです。

 その興味はもちろん、老いのただ中にいる、もしくはその入口に立っている人たちを描いてみたいという作家の欲に繋がっていきました。朝日新聞出版の担当さんから何かミステリを書いてみませんかというお話をいただいた時に、ふとじいさん探偵とおっさん助手はどうか、と頭に浮かびました。

 私はいわゆるミステリ作家ではありません。幼い頃は江戸川乱歩や赤川次郎を貪るように読みましたけれど、それはおそらく当時の少年の読書としては基本であって、いわゆる高度なミステリ的教養のうちには入らないでしょう。

どうせやるなら、あまりいないタイプのなぞ解き主人公がいい。なら、かっこいい(もしくはよれよれの)じじい探偵がいてもいいんじゃないか、というのが発端でした。

 老人探偵と堂々銘打っているのは東京創元社から刊行されている『海の上のカムデン騒動記』という物語がありまして、老人ホームに住むおばあちゃんが探偵として大活躍(?)するというお話です。

 そうそう、はっきり老人とは書いていませんが、忘れてはいけない大物がいました。アガサ・クリスティの生み出した大スター、エルキュール・ポワロです。

 彼は第一次大戦時に警察官の職を辞し、その後ビートルズの活躍した年代までばりばり事件を解決しまくったのですから、相当なスーパーじいさん探偵であるといえるでしょう。フィクションのスターは時空を超えることを許されていますから、これはご愛嬌ではあります。

 ただ、この両作に登場する老人探偵はちょっと身近とはいえない存在です。何せアメリカの高級老人ホームにお住まいの方々とベルギー生まれのイギリス人ですものね。

 この度の新刊『つちくれさん』の主人公は、優れた能力を持ちながらとあるスキャンダルに巻き込まれて学界のメインストリームから去った老考古学者と、警察官を定年退職したばかりの元刑事がひょんなことで出会い、目の前に現れる謎や疑問に立ち向かう、というお話です。

 考古学者は奈良の飛鳥、それも古墳のすぐそばに家を構えており、元刑事は長野市に住んでいます。どちらもまず私にとって縁の深い場所を選びました。ミステリという、かつてはよく読んでいたけど長編を書くのは初めて、というジャンルですから、場所はなじみ深い場所にして足場を固めようと考えたのです。

 彼らを描く上で、私は身近にいる「老人」のことを考えました。父や親族、年上の知人などを思い浮かべていると、誰もがおかしいほどに「老い」に逆らっているのです。頭髪はなくなり、顔の皺が深くなっても、体が動く限りは己の愛した道を歩もうとしています。

 人の老年期はある意味つらい時期でもあります。親しい人が世を去るのを見送らなければならないこともあれば、自らの肉体にも衰えがくる。かつての体力も頭の柔らかさもなくなっていく。もの忘れもひどくなり、新しいことを身につけるにも時間がかかる……。

 ですが彼らは新しい山に登り、次々現れる患者を診て、まだ見ぬ遺構を求めて土を掘る。老いは確かにそこにある。何をするにも若い頃のようにいかないかもしれない。それでも、その年齢なりの強さや柔らかさは確かにあるし、身につけることもできる。

 時に老いを考えたり描いたりするのはエレジーになりがちですが、そこには若さとは別種のエナジーが潜んでいるように思うのです。つちくれさんたちの旅はもしかしたら、この先も続くかもしれません。彼らの奏でる美しい哀歌と迸るような活力を書き続けていけたらな、と願う次第であります。