本書がデビュー作となる若い著者が、禁じられた書物をめぐる、ヨーロッパの重厚な建築物を思わせる世界を果敢に描き切った。

 イタリアの大学都市ボローニャを舞台に現在と過去、二つの時間が交互に流れる。未知の世界への重い扉を開けるのは、ボローニャ大学で美術を学ぶ日本人留学生の節子。卒業するには近代史の小論文を提出しなくてはならないのだが、肝心のオルタ教授が行方不明でつかまらない。

 教授の自宅に電話し、教授の年若い妻から手渡された古い書簡を解読するため、彼女に教えられた教授の助手であるカシワに会いに行き、郊外の屋敷に連れていかれる。教授は過去と現在をつなぐ世紀の大発見に興奮していた。

 物語のカギとなるのがダンテの『神曲』。イタリア語の基礎となったこの古典はイタリア人ならだれもが学校でみっちり教え込まれるそう。その「国民文学」を読み込み、荒馬を乗りこなすようにして、時空を超えるさまざまな人物をつなぎ合わせていく手綱さばきが鮮やかだ。

 節子、オルタ教授、カシワの3人が踏み入っていく歴史の謎に呼応して、過去の時間も動き始める。16世紀のボローニャでは、いままさに建築家モランディがアルキジンナジオ宮殿の改築工事に取り掛かろうとするところ。ボローニャ大学として使われ、カシワが勤める図書館もこの宮殿の中にある。だからこそ、異なる時間が流れこんでも違和感がない。著者はボローニャ大学に学んだことがあるそうで、往時の面影を残すこの場所で、過去のさまざまな声に耳をすませることもあっただろう。

 改築工事が始まる数年前にはローマ教皇によって禁書目録がつくられ、教皇領にあるボローニャ大学でも多くの教授が追放されていく。工事にたずさわる石工のジュゼッペじいさんの弟もその一人だ。弟は家の嫡子で、ダンテの友人だった先祖から受け継いだ100冊もの書物と「神曲」の手稿を、腹違いの兄にひそかに預けていた。

 読んだだけで死刑になる書物が100冊。「人間が歴史のなかで積みあげてきたものを、簡単に否定して消し去ろうなどと考えてはならぬ」。愛する弟を火刑に処され、自分自身も拷問でさんざん痛めつけられたジュゼッペの、何とかしてこれらを守りたいという切なる願いにこたえようと、モランディは命がけで策を講じる――。

 歴史にくわしい人ならここで、だってダンテは14世紀に死んでいるはず、と思うだろう。そう、この100冊は、たぐいまれなる知性の持ち主であるダンテが、将来、禁書になることを見通して集めたという設定なのだ。英知の結晶である書物が一部の人間のその場しのぎの判断で葬り去られることがあってはならない、という強い思いが、ダンテからジュゼッペ兄弟、モランディへと手渡されていく。

『神曲』でよく知られている言葉は地獄篇第三歌の冒頭、〈われを過ぎんとする者、すべての望みを捨てよ〉だが、この小説ではそのあとに続く、ダンテの水先案内人である詩人ウェルギリウスのせりふ、〈この世は、彼らの名が残ることを許さない〉をモチーフとしている。後世に伝えられる書物は、ほんの一部に過ぎない。時の流れを変える可能性を秘め、だからこそ権力の手で消し去られたであろう書物の姿もまた、著者は想像力をはばたかせて描き出してみせる。

 ガリレオ・ガリレイ、天文学者のチェッコ・ダスコリなど歴史上の人物が数多く登場する。なかでも重要な役割を演じるのが「考える人」で知られる彫刻家のロダンである。

 地獄をめぐる『神曲』のダンテ以上に万事、おっとり受け身の節子が唯一、積極性を発揮するのもロダンをめぐる推理で、ボローニャの名家であるオルタ家に伝わるロダンの彫刻群と、上野にある、『神曲』を題材にした「地獄の門」との類似と異同を指摘し、『神曲』改変の意味を探り当てる。ロダンのモデルをつとめた日本人女優花子のエピソードもたくみに織り込んで、日本の読者にそれほどなじみがあるとは言えない『神曲』の世界をぐっと身近に引き寄せている。

 初めての小説で、よくまあ、これだけ多彩なエピソードをみごとにさばききったと思う。さらに、著者の持ち味と思えるのが単純に善悪を色分けしないものの見方で、「悪事としての悪事を働く者よりも、正義の側にいると信じて疑わず人を踏み潰していく者たちのほうが、実はわたしはおそろしい」と、登場人物のひとりに言わせている。

 終盤に、地動説を唱えて火刑になったダスコリの子孫を登場させオルタ教授と対置したのも、知の世界を象徴するオルタばかりを絶対的な正義にしないためだろう。研究に没頭すると頭に霧がかかってほかのことを忘れてしまう夫に顧みられないオルタの妻の不可解な行動もまた、知の光では照らし切れない、この世の闇の部分に読者の目を向ける。