日本初のインド料理店「ナイルレストラン」経営者家族の波乱万丈人生 (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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日本初のインド料理店「ナイルレストラン」経営者家族の波乱万丈人生

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G.M.ナイル(左)/フルネームはゴパーレン・マダワン・ナイル。1944 年、茨城県生まれ。大学卒業後、両親が開いた日本初のインド料理店「ナイルレストラン」を引き継ぐ。明るいキャラクターでタレントとしても活躍。テレビやラジオのバラエティー番組にも多数出演。大の警察好きとしても知られ、都内に警察資料館を持っている。69年続くナイルレストランの看板メニュー「ムルギーランチ」は、母のレシピを継承する味。満子ナイル(みつこ・ナイル)/1944 年、東京都生まれ。高校卒業後は大手商事会社に勤務。結婚当時はアメリカ系企業に勤めていたが、夫と共にナイルレストランを切り盛りするために退職。当時、小指を立てて「私はコレで会社を辞めました」というコピーがはやっており、送別会で親指を立てて「私はコレで会社を辞めます」と言って大ウケしたとか。現在は千葉県鋸南町のNPO法人「猫達の幸せを守る会」で保護猫活動もしている。(撮影/遠崎智宏)

G.M.ナイル(左)/フルネームはゴパーレン・マダワン・ナイル。1944 年、茨城県生まれ。大学卒業後、両親が開いた日本初のインド料理店「ナイルレストラン」を引き継ぐ。明るいキャラクターでタレントとしても活躍。テレビやラジオのバラエティー番組にも多数出演。大の警察好きとしても知られ、都内に警察資料館を持っている。69年続くナイルレストランの看板メニュー「ムルギーランチ」は、母のレシピを継承する味。
満子ナイル(みつこ・ナイル)/1944 年、東京都生まれ。高校卒業後は大手商事会社に勤務。結婚当時はアメリカ系企業に勤めていたが、夫と共にナイルレストランを切り盛りするために退職。当時、小指を立てて「私はコレで会社を辞めました」というコピーがはやっており、送別会で親指を立てて「私はコレで会社を辞めます」と言って大ウケしたとか。現在は千葉県鋸南町のNPO法人「猫達の幸せを守る会」で保護猫活動もしている。(撮影/遠崎智宏)

 千葉県の南房総。鋸山を背にした8千坪超の敷地に、夫妻の家はある。門を入ると、巨大なお釈迦様と不動明王。その奥には日輪の馬車を引くという伝説のアポロンの像……。日本初のインド料理店「ナイルレストラン」オーナーのナイルさんと、妻の満子さん。何もかもが規格外の、波瀾万丈な夫婦の人生とは。

*  *  *
夫:ここに来たのは23年前。初めは別荘を建てるつもりでした。最初は湘南がいいと思ったんだけどね。

妻:テレビでログハウスを見て、こういう別荘がいいね、って言ったのよ。

夫:そう! それでその日のうちに湘南まで、土地を探しに行った。

妻:ほぼ物件が決まったころに、千葉もいいよ、っていう人がいて。

夫:千葉にはいいイメージがなかったんですよ。工業地帯じゃないか、なんて。でも、見るだけ見ようと来てみてたら、まあ、すばらしいこと! それにやがてはアクアラインが通るのもわかってましたから、思い切って移住したんです。

 おやじは昭和3年、インドから京都帝国大学へ留学してきたんです。その当時、世界にインドという国はなかった。英国領インド、植民地だったんです。

妻:お父さんは独立運動の活動家で。

夫:英国側から目をつけられて身が危ないと。そこで祖父が、おやじを留学させることにしたんですよ。

妻:昭和初期のインドですから、大変なことだったでしょうね。

夫:当時のインドから留学する人なんて、ほとんどいなかった。いてもオックスフォードかケンブリッジ。それじゃ、イギリスから逃げられない。日本を選んだのは、日露戦争で白人に勝った唯一のアジアの国だったからなんです。

――夫の父は日本でインド独立運動を続け、日本政府や軍部の要人ともつながりを持つ。やがて満州(当時)へ渡り、1934年、大連で開かれたアジア会議にも出席。その後、縁あって日本女性と結婚。2人の男児(夫とその兄)をもうけた。

夫:僕も兄も日本生まれの日本育ち。戦後、父がやっていた翻訳や通訳の仕事もなくなった。そこで母が「私が家族を食べさせる」と、銀座に日本初のインドレストランを開いたんです。


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