“ミニ皇后”と呼ばれた黒田清子さんは平成の皇室バッシングをどう切り抜けたのか (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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“ミニ皇后”と呼ばれた黒田清子さんは平成の皇室バッシングをどう切り抜けたのか


1993年 紀宮さま24歳 訪欧から帰国した両陛下(当時)を羽田空港に出迎えて (c) 朝日新聞社

1993年 紀宮さま24歳 訪欧から帰国した両陛下(当時)を羽田空港に出迎えて (c) 朝日新聞社

 眞子さまと小室さんの結婚問題に端を発した、秋篠宮家への批判は、やむ気配がない。批判の嵐は、平成が始動したばかりの頃の「皇后バッシング」を思い起こさせる。このとき、母のために口を開いたのは、黒田清子さん(52)だった。清子さんの文書をひもとくと、皇室バッシングの嵐をしずめる糸口が見つかりそうだ。

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 世間から批判を浴びる皇室。そして家族をかばうように言葉を紡ぐ内親王。

 思い起こされるのは、平成がはじまって間もない時期に起きた皇后バッシングだ。平成が本格的に船出し、東南アジアや中国の訪問がはじまったころ、守旧派は平成の皇室に対する批判を強めた。

 明仁天皇(現上皇)と皇后(現上皇后)美智子さまは傷つき、孤立感を抱いた。次第に、批判は皇后に集中するようになった。そして1993(平成5)年10月20日。誕生日の朝に、美智子さまは倒れて声を失った。

 このとき公表された、美智子さまの誕生日文書の言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。

<どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません>
1996年 上皇さまの疎開先であった栃木県の日光植物園を訪れた美智子さまと紀宮時代の清子さん(c) 朝日新聞社 

1996年 上皇さまの疎開先であった栃木県の日光植物園を訪れた美智子さまと紀宮時代の清子さん(c) 朝日新聞社 

 吹き荒れる皇后バッシングに対して、黒田清子さんは2度に渡り、思いを述べたことがある。

 最初は、美智子さまが声を失った翌年、平成6(1994)年4月18日。清子さん25歳の誕生日の回答文書だった。清子さんは、声を失った母の身を案じながらも、こうつづっている。

<お言葉がでないということは、皇后様にとってどんなにお辛く、御不安でいらっしゃるかと思います。ただ、私にとって不思議だったことは、皇后様がそのような状態でいらっしゃっても、私達の日常生活が大きく変化したとは感じられなかったことです。昨年、両陛下がヨーロッパをご訪問になった後、現地の人から届いた手紙の中に、皇后様に会われた時の印象として「quality of presenceを深く感じた」ということが書いてありました。読んだ時には、心に残っても具体的に理解することが出来なかったこの一言が、言葉を失われてからの皇后様との日々に、改めて思い出され、自分の中で実感としてわかることが出来たように感じています。皇后様の在り方やご様子はとても「言葉」に近く、「話される」ということ以上にそこにいらして下さるということが、私の安心感と喜びにつながっていたように思います>


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