それが、2000年代に入って日本全体がグローバル化の波に飲み込まれると、業界の環境が一変。製品価格が下がり、取引先は人件費の安い海外の工場に発注を次々に移していった。
「昔は、この地域に進出してきた企業も『地元の企業を育てよう』という気概があって、僕らみたいな小さな工場でも大事に育ててくれた。仕事もみんなで分けあって、厳しい時も助け合って頑張った。そんな時代は終わってしまったんですね。今は人件費の安い国に注文がいくだけです」(同)
おととし、大きな転機もあった。一緒に会社を経営してきた弟が、がんで亡くなった。これを機に「続けても、未来が開けるわけではない」と考え、事業の清算を決意した。会社には金融機関への借金もなく、資金繰りに困ったわけでもない。ただ、赤字に陥る前に、自らの代で会社をたたむことに決めた。
そこには、「弱肉強食」のグローバル社会で、大手資本に技術やノウハウが簡単に吸収され、海外に持っていかれてしまうという、日本のものづくり企業の苦悩もあった。
「会社の清算は、4年ぐらい前から考えていた。取引先の会社がヨーロッパの多国籍自動車企業に買収されてね。最初は日本の仕様で生産を続けてたけど、1年ぐらいでベトナムの工場に生産を移した。その間に、どんな技術を使って部品をつくっているかを理解したんだと思いますよ。それでウチの工場は必要ないと判断したんでしょう」(同)
望月さんの知人にも、事業の継続をあきらめる人が相次いでいるという。なかにはグローバル化する世界に合わせて、取引先の企業と一緒に海外に進出した経営者もいたが、現地での事業に失敗し、最後は首をつってしまった。
「製造業で日本の中小企業というと世界最高峰の技術を持つ会社ばかり注目されますけど、そんなのはほんの一部。ほとんどが、僕らみたいな町工場。若い人も業界に入ってこないし、日々の仕事で手いっぱいで、新しい事業を考える余裕もなかった」(同)