沖縄戦で、少女が白旗を掲げ、避難民や日本兵の先頭に立って米軍に投降した。米軍の記録フィルムに登場し、「白旗の少女」と呼ばれた。1987年、あの少女は自分だと名乗り出たのが比嘉富子さんであった。
朝日新聞に比嘉さんの体験談が残っている。
<20年5月、住んでいた首里市(現那覇市)鳥堀町に戦火が迫り、6歳の比嘉さんは兄、姉、弟と南へ逃げた。まもなく兄は銃弾を浴びて死に、姉、弟ともはぐれた。1人きりの避難の旅。ちょこちょこ動き回るため、日本兵から危険視され「お前を生かしておくと、こちらが危ない」と、何度も壕(ごう)を追い出された。
逃げ回るうち、偶然飛び込んだ壕に、老夫婦がいた。おじいさんは両手両足がなかった。おばあさんは目が不自由だった。
「もう戦は終わったから出てきなさい」。ある日、米軍の投降勧告が聞こえてきた。外に出たがらない比嘉さんを、老夫婦は「お前は子どもだから、アメリカ兵も殺さない」となだめすかして送り出した。夫婦が白い三角旗を持たせてくれた。おじいさんの下着で作ったものだ。「これさえ持っていけば大丈夫。世界中の約束だよ」とおじいさんは言った。
比嘉さんはいま、中古車販売業の夫、夏夫さん(52)と2人暮らし。今春、沖縄短期大学英語科を卒業し、現在は沖縄大学法学科の2部に通う主婦大学生だ。
老夫婦がどうなったかを比嘉さんは知らない。もちろん、名前も分からない。フィルムの「白旗を掲げる少女」にも1度、テレビニュースで対面したきりだ。比嘉さんは「わたしを救うために全力を尽くしてくれた夫婦の情の深さをみなさんに分かってほしい。映画を通して少女のその後に関心を寄せてくださった人たちには、いま、はっきりと『生きています』といいたい」と話している>(朝日新聞、1987年10月24日、夕刊、1面)
「白旗の少女」を色付けする時、渡邉さんは比嘉さんに関する記事などを参考にしていた。渡邉さんは、「ご本人にみていただく機会があればと願っています」と思いを込めた。
写真は、米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリックドメイン(共有財産)として公開しているものを中心に渡邉さんが収集。庭田さんは、主に広島の戦争体験者と直接やり取りをして使用許可を得て写真を集めている。
カラー化した写真の色彩は、できる限りの再現を目指したが、渡邉さんは「まだ不完全」だという。
「もととなる当時のモノクロ写真は、かけがえのない貴重な資料であることは言うまでもありません。実際の色彩を完全再現に近づけるため、過去の記憶をたどる旅は永遠に終わらないと思います」
(AERA dot.編集部・岩下明日香)