今年もまた宗教に対する日本人の無節操ぶりが発揮される時期がやってくる。クリスマスで騒いだ1週間後には寺が鳴らす大晦日の除夜の鐘を聞き、その数時間後には神社に初詣に出かける……。
まあでも、嘆くには及ばない。現代人が信じて疑わない「しきたり」には、そもそもマヤカシが多いらしい。島田裕巳『神社で拍手を打つな!』は世の「常識」を根底からひっくり返す快著である。
まず神社ね。最近の神社にはよく「二礼二拍手一礼」の札が出ている。でもこんな作法、昔ありましたっけ。手を合わせるだけじゃありませんでした? 著者によれば二礼二拍手一礼が広まったのは平成以降のこと。もともとは神職らが玉串を捧げる際の作法であって、根拠も薄い。参拝者にまで強制されるいわれはないのだ。
108の煩悩を払うといわれる除夜の鐘も、さほど古い風習ではないようだ。定着したのは昭和、広めたのはラジオ放送だった。「ゆく年くる年」に先行する「除夜の鐘」というラジオ番組が戦前からあり、各地のリレー中継がはじまる前は寺から借りた鐘をスタジオでたたいていたらしい。
初詣が定着したのも昭和で、背景には鉄道会社の経営戦略があった。東京から鉄道で行ける川崎大師や成田山新勝寺への初詣を鉄道会社が宣伝し、昭和になると大晦日の終夜運転がはじまってますますそれに拍車がかかる。交通網やメディアの発達によって「しきたり」は簡単に変わるのだ。
しきたり重視派は<昔から受け継がれてきた伝統だから、それに従うべきだ>というが、近年は<商業資本の手によって導入された新たなしきたり>が多い。
二礼二拍手一礼の欠点は、神を「崇める」だけで静かに「祈る」時間がないことだ。大切なのはその「しきたり」を誰が決め、どんな意味があるか考えること。思えばあの大嘗祭だって、どんな根拠があるのやら。<しきたりは栄枯盛衰をくり返す>、それは<あくまで人間が定めたしきたりである>と思えば気持ちは軽くなる。よし、来春は拍手をやめよう。
※週刊朝日 2019年12月27日号