この人が翻訳したのなら、つまらないはずがない。そう思わせる翻訳家がいる。たとえばアメリカ文学の岸本佐知子。ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』は、岸本が作家に惚れ込み、出版を切望して実現した短編集。読んだ人の評価は高く、口コミで読者が広がっている。
ぼくはルシア・ベルリンをよく知らなかった。これまで雑誌で一つか二つ、読んだだけ。本書に収められた全24編を読んで驚いた。こんな作家がいたなんて。
訳者あとがきによると、ルシア・ベルリンは1936年に生まれ、2004年、68歳で死去。3度の結婚と離婚、貧民街の暮らしとお屋敷での召使つきの暮らし。教師や掃除婦、電話交換手、看護師などさまざまな職業を経験した。祖父や叔父、母はアルコール依存症で、後年、自身も同病に苦しむ。彼女の短編は、波乱に満ちた人生のワンシーンを切り取ったよう。
たとえば冒頭の「エンジェル・コインランドリー店」という短編は、語り手がコインランドリー店でしょっちゅう一緒になるインディアン老人、トニーについての話。トニーは酒びたりで、手が震えている。乾燥機にコインを入れることすら難しい。へべれけになっていることもある。ところがこの店、店主によって店じゅうに禁酒の誓いや祈りの貼り紙がされているのだ。そんなトニーと店主を眺めながら、語り手は自分の人生のあれこれを振り返る。
悲惨な状況を描いているのに、辛いとか苦しいとかいった感情は伝わってこない。自分自身を笑うかのようにユーモラスでさえある。自己との距離感が素晴らしい。
※週刊朝日 2019年9月13日号