10月の古い呼び名は神無月。旧暦では今年は10月31日より神無月となります。よく語られる薀蓄に、「神無月は出雲(島根県)では神在月(かみありづき)で、全国から主だった神様が集合して人間の縁結びの相談をするのだ」というものがありますね。事実島根では「神在月」といわれ、出雲大社や佐陀神社で祭りが行なわれます。
でも、「神無月」を「神の無い月」と読み解くこと自体がこじつけで、「水無月」が「水の月」という意味であるのと同じく「神(の)月」の意味というのが定説です。
この時期、神々は縁結びのために出雲に集まるのでしょうか?それとも?
イジワル兼好法師「おまえら神無月に神々が集まるとかいってるけど何の根拠もないんだが(笑)」
まずは現在言われている「出雲の神在月」の概略を整理してみましょう。
出雲で旧暦の10月を「神在月」というのは、出雲大社の大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)の元に全国から神々が集まるため、神々がひしめいて「神が在る月」で「神在月(かみありづき)」という。神々は稲佐の浜から上陸し、竜蛇神の扇動で出雲大社の神楽殿に導かれる。ただし伊勢神宮の天照大御神(あまてらすおおみかみ)と諏訪大社の建御名方神(たけみなかたのかみ)だけは参集しない。
そして出雲大社に集まった神々が「神議(かむばかり)」という会議をして、来年の人々の縁、仕事運などを差配する。
と、おおよそこのように言われています。でも実はこれは中世以降に出雲大社(明治以前までは杵築神社といわれていました)の御師(おし/昔のツアーコンダクター、観光宣伝係)が盛んに全国に広めたいわば俗説、作話です。
あの「徒然草」の吉田兼好も、「十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。(中略)この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。(第202段)」つまり、「十月には大神宮(伊勢神宮)に神様たちが集まるとか言う説があるが全然根拠ない話だよね」と記しています。ここでは、神無月の神々の集合を否定するばかりではなく、出雲大社ではなく伊勢神宮に集まるという説がある、と書かれています。当時、伊勢の御師も似たような客寄せの口上を広めていたとも考えられますが、中には吉田兼好の勘違い、と言う者もあります。が、兼好は実は占部家という名門神官の家系であり、神道の風習については一般人よりはるかに詳しかったといわれ、知らなかったとか勘違いと言うことはないでしょう。ここで出雲大社(杵築神社)に触れていないのはおそらく意図的で、杵築神社の客寄せ口上など話題にすらしてやらん、という意思のように読み解けます。
起源は神々の母・伊弉冉尊(いざなみのみこと)を偲ぶ「お忌さん(おいみさん)」と新嘗の斎戒
本来の「神在月」の「神在」とは「じんざい」と読み、鎮齋(ちんさい)すなわち斎(いつ)き鎮まる=物忌みをし、厳しく斎戒をする月、という意味でした。これは新嘗祭(にいなめさい)の古来の姿だといわれています。これを相新嘗(あいにいなめ)といい、その年の新穀を神に献ずる儀式で、それに先立ち心身を清めるための厳しい斎戒を行ったのです。大宝律令が制定されて以降、伊勢神宮のみを尊重の意味をこめて先行して新嘗祭を9月に繰りあげ、その他の神社では11月に繰り下げられたために新嘗祭と言うと今や11月というイメージです(現代では新嘗祭にあわせて11月23日が勤労感謝の日という祭日になっていますよね)が、本来は旧暦10月におこなわれていたのです。そして出雲国ではこの古来の新嘗の祭が固守されていました。
また、旧暦10月は多くの神々を産み落としたとされるイザナミノミコト(伊弉冉/伊邪那美/伊弉弥)が神去った(亡くなった)月であるという伝承があります。古事記では「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国の堺、比婆の山に葬りき」とあり、現在の鳥取県との境、島根県安来市伯太町横屋の比婆山の山頂に埋葬されたとされ、現在は比婆山久米神社が、山頂に奥の宮、山麓に下の宮の社殿が建てられています。そしてそのことから、以降八百万の神々は毎年この月になると出雲に集い母神を偲ばれるのだとされ、つまり、父神イザナキにより母神イザナミの殯(もがり・死者を悼み、その死体の腐敗を見届ける儀式)をおこなった出雲の地に神々が由縁の月に集うという伝説と、人々の新嘗の斎戒=忌み行事が重なって、「お忌さん」と呼ばれる神在月の祭りと信仰が形成されたのが実態なのです。
神在祭の期間中は、歌舞音曲や喧騒はもちろん、造作等も慎む禁忌の祭でした。祭は陰暦10月11日から25日までの15日間で、11日から17日までが上忌で準備期間としての散祭(あらいみ)、18日から25日までが下忌で致祭(まいみ)とされ、重んじられたのは下忌の方で、25日の神等去出(からさで)神事が終わるまで特に厳しい謹慎斎戒に服しました。
この上忌と下忌を、今では神々がまず出雲大社にお立ち寄りになり、そのあと佐陀神社においでになる、というふうに言い換えられてしまっていますが、これは出雲大社では上忌が残り、佐陀神社は下忌が残った為に作られた後付のストーリーです。
大国主神がゆずった「国」とはどこの「国」なのか
それにしても、どうして出雲だけが特別に古来の神在祭が残り、また神話にたびたび登場するのでしょうか。スサノヲがおいおいと泣いて「妣(はは/亡くなった母親を表す言葉でここではイザナミを指します)の国根の堅州国(かたすくに)に罷(まか)らむと欲ふ」とうったえた根の堅州国と言うのも、出雲を指します。「根の国」の「根」は、今でも「島根県」という名前に残存していますよね。
とりわけ有名で重要な逸話は「大国主神の国譲り」ではないでしょうか。
この大国主神とはどんな神なのでしょうか。
日本書紀本文ではスサノヲの息子とも、古事記、日本書紀の一書(異伝)ではスサノオの六世の孫、または七世の孫などとされ、大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大物主神(おおものぬし)・八千矛神(やちほこ)・葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)など数々の異名を持ち、またその子供は何と180有余ともいわれる子沢山。子沢山のゆえに大国主神を祭る出雲大社は縁結び・子孫繁栄のご利益の神社となっているわけです。
大国主神は外来神の少彦名命とともに葦原中国(あしはらのなかつくに)を史上初めて平定した国づくりの偉大な神といわれています。そして高天原からの天孫降臨により国を明け渡せとせまられて、「隠れた(この世から去った)」と伝えられています。
この葦原中国(あしはらのなかつくに)は現在の西日本一帯、北九州から中国・近畿・紀伊半島までもふくめた広い地域の統一国家もしくは連合国を指し、その首都もしくは首長国が「出雲」だったのです。今の日本で言えば東京都にあたる地域が、古代では出雲だったのでした。
神話の中では、「黄泉の国」と同定される(厳密に言えばまったく違うのですが)こともある「根の国」のことも指し、出雲地方一地域のことも指し、また古代統一国家「出雲大国」の意味であった出雲。異なる意味合いがこめられていることが混乱の元。
これは、その出雲の首長であり創始者である大国主神についてもいえることでした。
タケミナカタは負けていなかったし国をゆずったのもオオクニヌシではなかった?
大国主神がスサノヲの息子とか何代後の子孫などと言われているのは「大国主」というのが固有名詞ではなく、「皇帝」や「大統領」と同じく、引き継がれた古代国家の支配者の尊称でもあったことを示しています。多くの異名があるのも、時代ごとに習合された神があるためです。
因幡の白兎や、スサノヲの元から物部の十種の神宝を強奪した大国主神と、フツヌシもしくはタケミカヅチに国譲りを迫られた大国主神は代替わりしていると考えられます。だからこそ、「息子の事代主(コトシロヌシ)に聞いてくれ」とわけの分からないことを言っているのです。つまり、このときもはやもとの偉大なる大国主神はすでにおらず祖霊となっていて、支配者はコトシロヌシだったのです。「代(しろ)」と言うのは息子とか跡継ぎの意味です。つまり「事」の跡継ぎ。「事」とは、尊称である初代「大国主神」の固有名、本当の名前だという説があります。
そして抵抗してタケミカヅチにやっつけられてしまうタケミナカタの神とは、まったくオオクニヌシの系譜に出てこないため、古事記の創作だと思われます。記紀が編纂された当時の最高権力を握っていた藤原氏の氏神であるタケミカヅチを活躍させるために登場させられたわけです。高天原の神の武力が上であることを示すために利用してしまったタケミナカタの神様に申し訳ないと怖れる気持ちが、現在の八百万の神大集合伝承の中でもアマテラスとともに「タケミナカタはおいでにならない」という免責・遠慮事項に現れていて面白いですよね。
出雲の神在月の祭りには神社社殿を造営しなかった古い時代の信仰の名残としての神奈備信仰の地として、出雲の神名樋山(かんなびやま)に神々が去来するという信仰にも関わりがあります。由緒や起源は書き換えられていても、「神々が集う」という信仰自体は古くから正真正銘受け継がれてきたものです。
特に、出雲国二の宮「佐陀神社」の祭・行事は古代の姿をとどめているといわれます。佐陀神社の祭神は出雲四大神の一柱、佐太大神。現在は猿田毘古大神(サルタヒコ)と同一神とされていますが、明治時代に佐太大神を猿田毘古大神に変えよと命じられた際、神官・氏子たちが断固拒否したという曰くの神です。実際サルタヒコは伊勢の神様で、佐太大神とはちがうのですが・・・これはまたいつかの機会に。
今年2016年の神在月の期間日程は、出雲大社が11月9日~11月16日、佐陀神社が11月20日~25日です。
特に25日の夜の神事は必見。境内の灯りが消された中で500年以上変らず伝えられてきたという神事が行なわれます。
古代の神様の姿を垣間見られるかもしれません。