政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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新型コロナウイルス感染をこれ以上拡大させないために、日本政府は大規模イベントの自粛を要請しました。今回のウイルス騒ぎで閉塞感を感じている方も多いことでしょう。
しかし、振り返ってみれば平成30年を過ぎて、令和の時代になった今も日本に漂っていたのは一言でいうと「時代の閉塞」だと思います。それが今回のウイルス騒ぎでより明確に表れたのではないでしょうか。
実は、この「時代の閉塞」という言葉を最初に用いたのは、歌人の石川啄木でした。1910年に執筆した「時代閉塞の現状」という評論で啄木は、時代への憤り、真摯な情念を綴っています。
啄木が「時代閉塞の現状」を書いたのは維新以来の右肩上がりが一段落した明治の終わり、近代日本の大きな曲がり角でした。敗戦から日本が世界の超大国になった昭和と平成の時代。そして啄木が生きた明治時代の空気感はどこか重なる部分があります。
だからでしょうか。啄木の「時代閉塞の現状」から110年も経つというのに、今の時代は啄木が憤ったあの時代に戻ったかのようです。その流れでいくと、なんとなく令和が大正に似てくるのではないかと思えてなりません。
今の日本に漂う閉塞感は、啄木の言葉を借りれば、「必要」というものから出発して考えられない時代の悪弊にあると言えます。何が本当に「必要」で、何がそうでないのか。あるところには「必要」以上のものが集中し、あるところにはそれが欠如しているのか。今日で言えば、格差や貧困、偏頗なグローバル資本主義の中で明らかになっている不均衡ということになるでしょう。
啄木の生きた時代同様に、今の時代は、多くの問題が浮き彫りになっているにもかかわらず、結局政治の世界は上の世代に丸投げの状態が続いています。
啄木は「時代閉塞の現状」の最後を「時代に没頭していては、時代を批評できない」と結んでいます。このような思想を持った先覚者がいたわけですから、時代閉塞に対して明確にマニフェストする。こういうようなことこそが、いま最も必要なのではないでしょうか。
※AERA 2020年3月9日号