90年2月の衆院選には麻原を始め25人が立候補した。億単位のカネをつぎ込んだが、いかんせん素人選挙だ。全員が落選し、麻原の得票はわずか1783票だった。

 麻原は衝撃を受けた。教団内で絶対者としてあがめられてきた権威の失墜。選挙に出ては負けた少年時代の屈辱の再来。

「もう(教団を)やめようか」

 と、珍しく弱音を吐いた。

 ここで麻原が、教団の内外で自分への評価がいかに違うか、世間からオウムがどれだけ冷ややかな目で見られているのかに気づいて踏みとどまっていれば、後の凶行は防げたかもしれない。ただ、この時点で信徒は7千人まで増えていた。

 広範の宗教の知識とカリスマ性を身にまとった「尊師」であり続けようとすれば、もう止まれない。麻原はすぐに思い直し、こう説いたのだ。

「私は6万票は取れるはずだった。選挙管理委員会絡みの大きなトリックがあった可能性がある。国家権力による妨害だ」

 落選の2カ月後、「東京が危ない」と信徒をあおり、沖縄県石垣市で大集会「石垣島セミナー」を開いた。参加費は1人30万円だった。

 ここで麻原は「ハルマゲドン」(人類最終戦争)を演出に使う。説法などで、

「97年にハルマゲドンが来て、10人中9人が死ぬ。オウムに入らないと生き残れない」

 と繰り返し、強引に出家者を増やして、全財産を布施させた。それによって、衆院選の供託金没収などで4億円消え、破産寸前とも言われていた教団財政の立て直しに成功した。

 その後、教団の暴走に拍車がかかった。90年秋には本県波野村(現・阿蘇市)の敷地取得を巡って、信徒5人が国土利用計画法違反の容疑で逮捕された。すると92年にはロシアへ進出。武装化へ大きく歩み出す。(年齢肩書などは当時)

*裁判でも続いた麻原劇場 殺人を正当化した教祖の狂気 <麻原彰晃の真実(3)>へつづく

※週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」(2012年7月15日号)から抜粋