稲穂が風に揺れる田んぼの中に、車が行き交う国道の脇に、子供たちがピクニックをする海岸に……。
約70年前、日本が戦争をしていた明らかな痕跡が、今もまだ、日常の風景の中に存在している。
8月15日は終戦の日。陽炎(かげろう)のように、戦争の記憶が立ち上ってくる。
◇ 「田園風景の中に残る、 飛行機を隠し守るための格納庫」香取海軍航空基地の掩体壕(えんたいごう) 千葉県匝瑳(そうさ)市
太平洋戦争末期、本土への空襲が増えるにつれ、全国にあった陸海軍の飛行場では、飛行機を守るためにコンクリート製の格納庫である掩体壕が盛んに造られた。土を蒲鉾型に盛り上げてむしろや板を並べ、その上に金網や鉄筋を張ってセメントを流しこみ、固まったのちに土を掻きだすという簡易なものだった。当時はさらに、土をかぶせて草を生やしたりして敵機に見つからないよう工夫した。終戦後、軍の飛行場が農地として払い下げられ、倉庫などに転用されて残ったケースも多く、掩体壕は今も全国に点在する。香取航空基地があった千葉県匝瑳市と同旭市には、計3基の掩体壕が現存。1945年2月には、ここから硫黄島方面へ特攻が出撃した。
◇「グラマンF6Fに機銃掃射された跡が生々しい建物」日立航空機株式会社立川工場変電所 東京都東大和市・東大和南公園内
子供たちの遊ぶ声が響き渡る緑豊かな東大和南公園の一角にある。1938年、この一帯に航空機のエンジンを製造する軍需工場が建設され、工場へ送電する変電施設として造られた。45年2月と4月に、工場は計3回の大きな爆撃を受け、100人以上の死者が出たが、変電所は奇跡的に生き残った。壁には、グラマンF6Fによる機銃掃射や、B29が投下した爆弾の破片によって無数の穴ができた。「変電所の前を通ると孫が『あれなに?』と不思議がる。戦争の悲惨さを後世に伝えるきっかけになっている」(公園近くに住む60代の主婦)。終戦後、変電所は穴だらけのまま93年まで操業を続けた。その後、地域住民の要望で保存されることになり、95年に市の史跡に指定。
◇ 「天皇と皇居を守った精鋭部隊の本拠地」近衛師団司令部庁舎 東京都千代田区・北の丸公園内
1910年、陸軍技師・田村鎮の設計により建てられた明治の代表的洋風建築物。皇居近くの北の丸公園に位置し、天皇と皇居を守る近衛師団司令部がおかれた。太平洋戦争では、近衛第一師団の司令部として終戦を迎えた。45年8月15日、ポツダム宣言受諾に反対し、決起を主張する将校らに森赳師団長が殺害されるという、半藤一利のノンフィクション『日本のいちばん長い日』で有名な「宮城事件」の舞台となった。現在は内部が改装され、東京国立近代美術館工芸館となっている。
◇ 「海辺の公園の散歩道に突如現れる異様な建物」富津射場の警戒哨 千葉県富津市・富津公園内
ジャンボプールや民宿などを訪れる人々でにぎわう県立富津公園の海辺の散歩道に、突如現れる通称「ぼうず」と呼ばれるコンクリート塊。1945年に終戦を迎えるまで、富津岬は、陸軍技術本部富津射場(42年に陸軍技術研究所富津試験場に改称)という大砲や弾薬の試験場だった。明治時代に造られた砲台が15年に除籍されたあと、射場として整備されていったらしい。ぼうずは試射を観測するための警戒哨として使われたようだ。「基本的に富津射場は榴弾砲の試射を目的とした場所であったようです。警戒哨の建設時期など詳細は不明ですが、富津岬が国防の要所として重要視されてきたことは間違いありません」(富津市役所生涯学習課)
※週刊朝日 2014年8月22日号