【現代語訳】
・「ああ、もうどうしようもない。自分でよく自分自身の悪いところを見て、内省する人を見たことがない」

・「孔子が魯の君主・周公旦を祭る神社に入られた時、祭祀の次第について、いちいちそばの者にたずねたうえで行動した。それを見てある人が言った。『誰があの鄒の町の役人の子(孔子)を、礼に達した人などとほめるのだろう。あんなふうに事ごとに質問するとは、あの男はまるで何も知らないようじゃないか』。孔子はこれを伝え聞いておっしゃった。『それこそが礼なのだ』」

【解説】
 お答えします。

 お母様の「いら立ち」、よく分かります。「ほかに使っている子がいないから」などという理由で、自分の子どもに滑り台を逆走させタイムを計って楽しむなんて!

「子どもは自分たちのアイデアで自由に遊具を使うものだ」という考え方もあるかもしれませんが、親が付き添って公園へいくような幼年期は、ケガをしてからでは遅いので、公共のマナー(=礼儀)を徹底的に教えるべきだと私は思います。

 そして、「礼儀をわきまえない人」に対して、いら立ちや憤りを感じたのは、孔子も同じです。

「已んぬるかな、吾れ未だ能く其の過ちを見て、而も内に自ら訟むる者を見ざるなり(ああ、もうどうしようもない。自分でよく自分自身の悪いところを見て、内省する人を見たことがない)」(公冶長第五)と言っています。「訟」とは「自責」を意味します。

 礼儀を知らない人が増えていると、私を含め、多くの人が感じています。電車でもエレベーターでも入り口で立ち止まって、後から乗る人降りる人の邪魔をする。道の真ん中を横に広がって歩いて、車が来てもよけようともしない。分別もしないでゴミを出す……など、言いはじめたらきりがありません。いら立ちを感じながら孔子のように「やんぬるかな」と言って、諦めるしかないのかなぁと思ってしまうのです。

 ただ、同時に、振り返って、自分自身、もしかして孔子の「内に自ら訟むる者」であるかどうか、とも考えます。つまり、自分も人に迷惑を掛けるような行いをしていないかどうか。

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