日本一志願者が集まる栄東中学の田中淳子校長は、開校当時からの定員割れの状況を改善するために、周囲からあきれられながらも、ある策を打ち出した。その後も次々と時代を見据えた舵取りをするなか、志願者数とともに大学合格実績も押し上げ、その勢いはとどまらない。世界銀行の職員から学校教員へと転身した経歴を紹介した前編に続き、後編では、60歳で再就職した「栄東」を、教職員と一丸となり、志願者数1万人の学校に育てた手腕に迫る。

MENU 「よろしく」の一言で栄東中学の教頭に 国語力がすべての基礎になる 佐藤理事長の志を継ぐ

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「よろしく」の一言で栄東中学の教頭に

 現職に繋がる佐藤栄学園理事長の佐藤栄太郎氏との出会いは、教育委員会に勤務しているときだった。

「社会教育施設で顔を合わせていたものの、当時はそれほど親しいわけではありませんでした」

 60歳で定年退職を迎え、私立の中学校、高校から再就職の依頼がかかるなか、一番早く面接があった栄東に赴く。佐藤理事長は持参した履歴書を一瞥すると「じゃ、4月からよろしく」と一言、それだけで面接は終わった。

 栄東は、佐藤理事長が1978年に高校を創設し、92年に中学校を併設。田中先生は中学校が開校されてから、数年後に赴任した。

「栄東高校に来たつもりだったのに、佐藤理事長から中学の教頭をやってほしいと。えっ栄東に中学校があるんですか、と驚いたら、ひどく怒られました」

 中学校開校当時は定員120人に対して入学した生徒は68人。田中先生が赴任した当初も、5回入試を行っても受験生は300人そこそこで、学力が追いつかず栄東高校に進学できずに退学していく生徒も多かった。

 その後もなかなか浮上できず、佐藤理事長から「このままでは中学校は立ちゆかなくなる。何か方法はないか」と相談を受け、2003年に思いきった策に出る。

「東大選抜クラス」の立ち上げである。「栄東中学校が偏差値40そこそこのときですよ。周囲からはあきれられて、ばかにされもしました」

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柿崎明子
ライター 柿崎明子
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