自宅は飛び散ったガラスがあちこちに突き刺さっていた。コンクリートに突き刺さるほどの威力だった。奇跡的にも両親や兄妹は全員無事だった。その日の夕方には、市街地から息も絶え絶えに逃げて来た人で、近くの神社はいっぱいになった。遺体があちこちにあった。遺体を火葬する煙が何日もの間、市内のあちこちで上がっていた。

「子どもが死んだとか、なぜ助けられなかったとか、そういうことを考え出すと切りがなくて、誰かが怒り出す。『やめんさい。みんな同じ運命じゃ。似た話は山ほどある』。そう言って怒る大人をよく見た」

 忘れるため、みんなが必死に働いた。それが広島の復興につながった。みんなの口癖は、「忘れんさい。運が悪かった。もう二度とこういうことはないけ。わしらの犠牲は戒めになるはずだから」だったという。

「そういう目に見えないものは傷と見なさずに、外から見える傷だけを言ってきた。色んな人が、他人には言えない内緒を持っている。だから隠すんです」

 ところが、外国メディアなどの取材のコーディネートで被爆者たちに会いに行くと、「日本では絶対に放送しない」という約束と引き換えに、話し出す被爆者が出てきた。

 原爆投下直後、友人同士の父親が、それぞれの子どもの遺体を火葬に付そうとしたら、遺骨の山ができていて誰の遺骨だか分からない。判別できるように、頭と頭をくっつけて火葬してもらったら、ひざから下が焼け残り、運動靴をはいた足が今も目に焼きついて離れないと、泣きながら話す男性がいた。

 爆心地から逃げる途中、被爆した母親が亡くなってしまい、遺体を焼こうにも燃やすものがない。周囲の葉っぱをかき集めても火が続かず、何度も何度も母親に火をつけた苦しみを語る男性もいた。被爆した母親から生まれた子どもがひと目で原爆の影響を受けていると分かると、死産だったことにしたという元助産師の告白もあった。

「国内で報じないと約束すると安心して、うわっと話す。戦後の隠された部分をいっぱい聞いた。外国人記者は、隠そうとする日本人にイライラする。外国なら核実験の影響を受けた子どもが産まれたら、世界に問題提起してください、これが現状ですと、子どもを映してくれと言ってくる」と小倉さん。そうした取材を通じて、小倉さん自身も「現実は、そのままの現実で人間の皮膚感覚で分かるようにしないと、核兵器なんて途方のないものの危険性を感じてもらうことはできないと思った」。

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被爆者の平均年齢が82歳を超えた…