世銀時代に知り合った、ドイツやフランスの技術者たちを休暇中に京都、奈良へ案内したり、田中先生の自宅にも招いたりと、家族のように過ごしたという。

 京都での経験を機に、それから教員の道に進むことになる。夫の転勤で京都の次は静岡の学校で教え、33歳のときに埼玉に赴いた。

 埼玉ではさまざまな経験をした。小学校、中学校、高校の英語教員の他に教育委員会にも勤務し、社会教育施設・青年の家の所長も務めた。教育困難校で奮闘したこともあった。

「親が刑務所に入り施設で暮らす子どもなど、いろいろな困難を抱えている生徒がいましたね。なかには事故から救いきれなかった生徒もいる。厳しい現実を目の当たりにしました。教師として無力さを痛感しました」

(ライター・柿崎明子)

<<後編:定員割れだった「栄東中学」が、志願者数1万人超の学校に変貌した理由は? 名物校長の起死回生策>>へ続く

田中淳子 京都市生まれ。同志社大学文学部英文学科卒。栄東中学・高校校長。学校法人佐藤栄学園理事長。大学卒業後、世界銀行に就職。東欧を中心としたヨーロッパ各国、アメリカ合衆国などに赴任した後、帰国して英語の教員に。埼玉県で定年退職後、栄東中学の教頭に着任。2008年栄東中学・高校の校長に就任。20年から同学園の第4代理事長を兼務。

著者 開く閉じる
柿崎明子
ライター 柿崎明子

1 2 3