
沢田研二、通称ジュリーは、時代のアイコンとして日本の音楽界と芸能界に大きな影響を与えました。その革新的なルックスと圧倒的なパフォーマンスは多くのファンを魅了し、今なお精力的に活動。幅広い年代から根強い人気を得ています。今回は、彼のデビューからソロ歌手としての成功、そして独立後の苦悩と挑戦を経て、生きる伝説・沢田研二が「完成」するまでを振り返る5本の記事を紹介します。※中将タカノリさんによる短期集中連載「君は沢田研二を知っているか」をまとめたものです。
①ジュリーこと沢田研二のルックスは革新的だった? 日本の男性スター像を激変させた“貴公子”に熱狂した理由
https://dot.asahi.com/articles/-/262882
沢田研二は、その華奢で美しいルックスとパワフルなパフォーマンスで、日本の男性スター像を一変させました。ザ・タイガースのボーカルとしてデビューし、瞬く間にトップスターに。彼の存在は、60年代から80年代にかけてのジェンダー観の変動とともに、社会に大きなインパクトを与えました。
②ジュリー・沢田研二はソロ歌手としてもトップスターだった! お茶の間にロックを届けた音楽的功績
https://dot.asahi.com/articles/-/262947
ザ・タイガース解散後、ソロ歌手として成功を収めた沢田研二。彼はバックバンドを帯同し、テレビでも理想のサウンドを追求しました。その姿勢は、多くの後続アーティストに影響を与え、ロック音楽を日本のお茶の間に届けるという功績を残しました。
③日本中がうち震えた「ジュリー・沢田研二」はいかにして完成形になったのか 欧米のモノマネではない独自の世界観
https://dot.asahi.com/articles/-/263018
沢田研二は、ドラマ「悪魔のようなあいつ」での怪演や、作詞家の阿久悠との出会いによって独自の世界観を確立しました。彼の革新的なパフォーマンスと演出は、日本のエンターテイメントにおいて新たな地平を切り開き、その存在はビートルズに匹敵するとまで言われました。
④ ジュリー・沢田研二の「TOKIO」から日本の80年代は始まった 冒険で切り開いた芸能界の頂点
https://dot.asahi.com/articles/-/263050
1980年にリリースされた「TOKIO」は、沢田研二にとって大きなターニングポイントとなり、80年代の日本の音楽シーンを象徴する楽曲となりました。彼は最新のトレンドを取り入れ続け、常に時代の先端を走り続けました。その冒険心と革新性は、多くの若者に影響を与えました。
⑤ ジュリー・沢田研二の長い苦悩の時代 独立、休養、離婚…“失敗”と言われる時期に追い求めたもの
https://dot.asahi.com/articles/-/263450
1980年代半ば、沢田研二は独立と新たな挑戦の時期を迎えました。セールス的には困難な時期もありましたが、彼は自身の表現を追求し続けました。この時期の経験が彼をアーティストとしてさらに深みのある存在へと成長させました。
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