日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年11月11日号より。
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2001年の仕事始めの1月4日。社長だった夫が急死して5カ月余りがたち、社長を継いで初の出社日だ。出迎えてくれたなかに、四十数年前に中学校を出て入社し、遊び相手になってくれた社員の声があった。
「恵子ちゃん、お帰りなさい」
3、4歳のころ、自宅近くに独身寮があり、そこにいた若い社員たちと遊ぶのが、大好きだった。朝早く寮へいき、寝ているのを「起きて、起きて」「自転車に乗っけて」と揺すった。両親は仕事の後に彼らを自宅へ呼んで、風呂を勧めて食事も出す。家族のようだった。初の出社日にその顔をみて、緊張し切っていた心身が、軽くなる。
フジワラテクノアートの前身は、祖父の藤原研翁氏が1933年に岡山市滝本町(現・北区富田町)で創業した藤原製作所で、みそやしょうゆの醸造機械メーカー。50年2月に株式会社の藤原醸機へ改め、工場を北区中島田町に建設した。父・章夫さんは藤原醸機の3代目社長、母・貞子さんは専業主婦。恵子さんは51年5月に生まれ、妹と祖父母がいる6人家族だった。
4代目社長だった夫が友人と瀬戸内海へ船で釣りに出て、水難事故で急死した2000年7月23日の岡山市は、とても暑い日だったのを覚えている。四十九日を済ませ、大学4年生だった長女の加奈さん、1年生だった次女の由佳さんが住んでいた東京の家へいき、しばらく過ごす。何とも心もとない風情を加奈さんが心配したようで、図書館へ連れていかれ、「本でも読んでいたら」と言われた。
友だちが勧めてくれた宮部みゆきさんの本を持っていき、それを読んでいるときだけは何もかも忘れた。だから宮部さんの著書は全部、読んだが、この間に自分が何をしていたかは、それしか覚えていない。