思春期にロッキード事件に遭遇してしまったもんで、「検事総長」「東京地検特捜部」はものすごいかっこいい存在として刷り込まれてしまっていた。その後、ロッキード裁判批判および立花隆によるその反論が「朝日ジャーナル」に連載されたのも大きかった。当時の検察関係者、布施健、安原美穂、吉永祐介なんて名前は一種のヒーローでした。
そんなヒーロー製造機の検察もその後、不可解な撤退戦や、アリャリャというようなみっともない不祥事などが続々出てきて、「やっぱり体制側など信用してはならぬ」というところに落ち着いてしまった。この本は、なぜ検察が、証拠品の偽造までする情けない組織になったのかを解き明かす。
読んで「やりきれんなー」と思う。それは検察がヒーローであったのも、ダメ組織となったのも、すべて日本人の日本人らしさがそうせしめた、としか言いようがないからです。
つまり「正しいことをやる」ことが「組織を守る」「秩序を守る」、ひいては「日本を守る」ことにつながる。ところが、「我々は正しいことをやっている」というのは、心にやましいところがあればあるほど「絶対に我々は正しいのだ!!」とばかりに周りを顧みなくなっていく。それでいい方向に出ることもあるけど、まあ、だいたいが悪い方向に行くわけだ。数々の冤罪事件を見ればそれはわかる。記憶に新しいのは厚生労働省の村木さん事件である。はっきりした証拠改竄(かいざん)ゆえにすぐにバレた。その点では「日本の検察も仕事が雑になった」と嘆くべきかもしれないが、この場合は雑でよかったのだ。なんともはや。
著者が新聞記者だから知ることのできる検察官の素顔もあって、チェ・ゲバラと高橋和巳の本が本棚にあった反骨検察官が紹介されている。が、正直「またかよ」の感が強い。堅い職業のエライ人ほど、私生活の趣味の評価は甘々でイヤになる。私生活なんかどうでもいいから、仕事だけの評価ができないものか。日本人にはムリか。
週刊朝日 2012年10月19日号