ゴールデンウィークに登山やハイキングなどで自然を楽しむ人も多いだろう。一方で課題となるのが、人間と自然の関係。野生動物も生息するような環境下で人間の活動はどのようにあるべきなのか。2年近く前、長く山に慣れ親しんできた女性がキャンプ場で、クマに襲われる経験をした。自然と付き合う上で参考になればと思い、今回、貴重な経験について女性に寄稿してもらった。

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 大学山岳部で一通りの登山訓練を受けた私だが、まさか上高地のテント場で死の恐怖を味わうとは思ってもみなかった。

 2020年8月7日深夜、上高地・小梨平キャンプ場に張った一人用テントで熟睡していたところ、大きな揺れを感じて目が覚めた。一瞬、地震かと思ったが、何かが違う。状況はつかめないが、何者かが足元側のテント下端をつかみ、強い力でどこかへ動かそうとしているのを感じた。人間だったらもっと高い位置を持つだろう。引っ張られる感触から、「それ」は低い位置に力点のあるもののようだった。

 やがて引っ張られる方向が定まり、ドーム状のテントに落ちる影が、足元から頭上へサーっと流れていった。目の錯覚でトンネルの中を通り抜けているように思った。このとき一度だけ「助けてください」と絞り出すように声を上げた。

 その後、何が起きたかは、あいまいな記憶と後から知った物的証拠をつなぎあわせて、語るしかない。黒く大きな影が足元側のテントの布に立ち上がるのが見えたような……バサッバサッと暴力的な音がしたような……何かが私のズボンの下端を片方ずつくわえて引きずり下ろした。これは、はっきり覚えている。さらにそれは覆いかぶさるように腕を振り回していたような……。動きとパワーを通して、これはクマだと思った。死を覚悟した。

 気がつくと真横に笹薮が見えた。上を見るとテントの支柱越しに夜空が見えた。あたりはとても静か。気を失っていたようだ。近くにクマがいるかもしれないと思い、刺激しないようにしばらく動かずにいたが、朝までずっとこのままの状態でいるのも堪え難い。現場はトイレの建物から数メートルしか離れておらず、十数メートル走れば、トイレの入り口にたどりつける。上体を起こしてそろりと立ち上がり、思い切り走った。走り始めたとき一度転んだ。下半身は下着しか身につけていない。まるでコントだ。とにかく必死で走り、トイレへ逃げ込んだ。立ち上がるとき、一瞬、ぬいぐるみのようにおすわりをしたクマの姿を見たような気がした。大きな耳が印象的でかわいらしかった。

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川名真理
川名真理

NEXTなめるようにクマは食べつくしていた
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